2018/04/24

大人の修学旅行2018 in鹿児島(その7)

南洲墓地をあとに、定期観光バスの最後の周遊地である仙巌園に向かいます。途中、篤姫生誕地の横を通りました。2008年のNHK大河ドラマで一躍有名となった「天璋院(てんしょういん)篤姫」が誕生した今和泉島津家(いまいずみしまづけ)の屋敷跡です。

篤姫こと島津一子(かつこ)は、島津家の分家である今和泉島津家に生まれ、のちに江戸幕府第13代将軍・徳川家定の正室になり、幕府が倒れるまで大奥の采配をふるった人物です。19歳の時に輿入れのために江戸に発ち、22歳の時に将軍徳川家定との婚儀がとり行われました。徳川家定は病弱であり、篤姫が家定とともに過ごした日々はわずか1年8カ月ほどだったと言われています。夫の死後、篤姫は落飾して「天璋院」と号しました。その後何度か里帰りをする機会はあったのですが、篤姫は一貫して徳川家の人間として振る舞い、江戸入りしてからは一度も故郷・鹿児島へ帰ることはありませんでした。

戊辰戦争が始まり、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れて、新政府軍が江戸総攻撃のために東上してくると、篤姫は東征軍参謀の西郷隆盛に、徳川家存続と徳川慶喜の助命を嘆願する書簡を出しました。西郷隆盛が勝海舟との会談で江戸城総攻撃を中止した背景には、この篤姫の嘆願書が功を奏したという見方もあります。篤姫(天璋院)は明治16年(1883年)に亡くなりました。享年49歳でした。この篤姫(天璋院)も幕末における重要な人物の1人です。篤姫の墓所は上野の寛永寺にあります。篤姫生誕地も屋敷は現存しておらず、現在は個人の敷地になっています。島津家の分家らしく広大な敷地で、周囲は歴史を感じさせる重厚な塀で囲まれています。

右手に異人館が見えます。この異人館は日本初の洋式紡績工場である鹿児島紡績所の技術指導にあたったイギリス人技師の宿舎で、慶応3年(1867年)に建てられました。日本で最も初期の洋風木造建築の代表的なもので、コロニアル様式のベランダや日本の寸法による設計など和洋折衷の建築様式が特徴です。昭和37(1962年)に国の重要文化財に指定され、平成27年(2015年)7月には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産である旧集成館の建造物の1つとして、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。(写真の建物は旧集成館の建物ですが、残念ながら異人館ではありません。)

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定期観光バスの最後の周遊地である仙巌園に到着しました。

仙巌園の手前にある鶴嶺(つるがね)神社です。鶴嶺神社には島津家歴代当主とその家族達が祀られています。亀寿姫も御祭神の1人です。亀寿姫は元亀2年(1571年)、島津家第16代当主の島津義久の三女として誕生しました。天正15年(1587年)、父島津義久が豊臣秀吉に降伏、亀寿姫は人質として豊臣秀吉のもとに送られました。その後、島津家第18代当主である島津家久(義久の弟義弘の嫡男)の夫人となり、寛永7年(1630年)に亡くなりました。心優しい人であったと伝えられ、鹿児島の人達は亀寿姫の法名・持明院にちなんで「ジメサァ」と呼んで慕い続けました。また、大変に美人であったとも伝えられています。『薩藩旧伝集』に、豊臣秀吉は亀寿姫があまりにも美しいので、はじめは偽物ではないかと疑いましたが、落ち着き払った態度を見て、本物に違いないという判断をしたという逸話が記されています。このため、鶴嶺神社に参拝すると身も心も美しい女性になれると言われ、多くの女性がお参りするようになりました。

私の隣でノリコさんとキョウコさんが食い入るようにこの説明板を見ています(笑)

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定期観光バスで最後に訪れたのは「仙巌園(せんがんえん)」です。この仙巌園は万治元年(1658年)に第19代当主であった島津光久によって造園され、その後も歴代当主による改築が重ねられてきた薩摩藩主島津家の別邸跡とその庭園です。別名「磯庭園(いそていえん)」。敷地面積は約5ヘクタール。借景技法を用い、目前の桜島を築山に、錦江湾(鹿児島湾)を池に見立てた壮大な庭園は、数ある大名庭園の中でも他に類を見ないスケールの大きさです。また、海外と繋がる「南の玄関口」と言われた薩摩の歴史にふさわしく、中国や琉球の文化の影響が園内随所に見られます。

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大陸文化の影響を受けた品々と南国の植物に彩られたこの庭園は、第28代当主の島津斉彬をはじめとする島津家歴代がこよなく愛し、徳川将軍家に嫁いだ篤姫や西郷隆盛も足を運びました。幕末から近代にかけては、薩摩藩・鹿児島県の迎賓館のような存在でもありました。幕末にはオランダの海軍将校や幕臣・勝海舟、イギリス公使パークスが、明治以降になると、大正天皇、昭和天皇をはじめとする皇族方、ロシア皇太子ニコライ2世、イギリス皇太子エドワード8世など国内外の数多くの要人が訪れています。 仙巌園は昭和33年(1958年)に国の名勝に指定されています。

後述しますが、平成27年(2015年)に世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」。その重要な構成資産の1つが、仙巌園内にある反射炉遺構です。もともとは上に炉や煙突があったのですが、それらは薩英戦争後になくなって、現在残っているのは基礎部分だけです。幕末の名君、第28代島津斉彬が日本を守る大砲を鋳造するために作らせたこの反射炉はもともとはヨーロッパで開発されたものです。しかし当時は鎖国中ですから西洋人に造ってもらうことも教えてもらうこともできません。オランダの書物のみを手がかりに、日本人だけで造るしかありませんでした。基礎部分は石垣を造る技術、燃焼室などの耐火レンガは薩摩焼の技術を応用したものです。西洋人に頼らず自分達だけで努力する姿勢がその後の日本の近代化に繋がったのであり、この反射炉は日本の「ものづくり」の底力を示す貴重な遺産といえます。写真は反射炉の模型です。

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NHK大河ドラマ『篤姫』のロケにも使われた仙巌園の「正門」です。残念ながらこの正門は篤姫がお亡くなりになった後の明治28年に築造されたものです。屋根の裏には、丸に十字と桐紋。ともに、島津家の紋章です。

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正門の横の建物に、薩摩の剣法「示現流」の展示がされていました。薩摩示現流は薩摩藩を中心に伝わった古流剣術のことで、薩摩藩内では江戸時代後期に第27代当主島津斉興(斉彬の父)より御流儀と称され、分家の佐土原藩を除き、藩外の者に伝授することを厳しく禁じられていたほどの剣法です。幕末期、新撰組局長・近藤勇をして「薩摩者と勝負する時には初太刀を外せ」と言わしめたほど恐れられていた薩摩示現流の剣法ですが、改めて解説を読むと、とにかく実戦的で物凄い剣法だったことが分かります。
 ・刀は抜くべからざるもの
 ・一の太刀を疑わず、二の太刀は負け
 ・刀は敵を破るものにして、自己の防具には非ず
とにかく防御は考えず、初太刀で敵を斃す。髪の毛一本でも早く打ち下ろせ。二の太刀は考えない…と教えられ、初太刀から勝負の全てを掛けて斬りつける『先手必勝』の鋭い斬撃が特徴の剣法です。そりゃあ、そんな刺客に狙われたら、たまったもんじゃあないですよね。

仙巌園はとにかく素晴らしい庭園です。中に入っていきます。

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錫門を潜り中へ入ります。仙巌園の門で有名なのは、NHK大河ドラマ『篤姫』の撮影で使われた正門のほうですが、実はこの正門は明治の時代になってから造られたものです。江戸時代の正門がこの朱色の門でした。特徴は屋根、瓦ではなく鹿児島特産の錫で葺かれていることで、そのことから錫門(すずもん)と呼ばれています。この錫門に限らず、かつては朱色の門は非常に高い身分の人しか使うことを許されていませんでした (有名な東大の赤門は、加賀百万石前田家の門です)。そのため、江戸時代にこの門を通ることができたのは、藩主とそのお世継ぎだけだったのだそうです。もちろん、今では誰でも通ることができます。ちょっと大名になった気分で門を潜ってみます。

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錫門を潜った先にあるのが数ある大名庭園の中でも他に類を見ないスケールの大きさを持つと言われる仙巌園を代表する借景庭園です。桜島を築山に、錦江湾(鹿児島湾)を池に見立てた素晴らしい景色というのを是非見てみたかったのですが、この日はあいにくの雨。しかもこの時間雨脚が強まっているので、目前に見える筈の桜島が雨に煙ってまったく見えません。辛うじて海に近い部分だけが薄っすらと見えるので、そこからイメージするしかないのですが、それによると、確かに目の前に海から聳える桜島がデェ〜〜ンと見える光景は素晴らしいでしょうね。

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この仙巌園はNHK大河ドラマ『西郷どん』のロケによく使われているところなのだそうです。この磯御殿前の広場は西郷隆盛と島津斉彬が相撲をとった相撲大会の会場として使われたところです。よく見ると、相撲の土俵の跡と思しき地面の盛り上がりがあります。撮影にあたっては写真に写っている (この後ろに立っている大きな木を支えるための) ワイヤーケーブルには紅白の布が巻かれ、祝いの飾りのように見せかけて目立たないようにしたとのことです。

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獅子乗大石灯籠です。

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島津家別邸の磯御殿です。この建物はNHK大河ドラマ『西郷どん』の中で島津家先代の第27代島津斉興とその側室・お由羅の方とのシーン等で何度も使われているのだそうです。

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望嶽楼(ぼうがくろう)です。望嶽楼は、第19代島津光久の時に琉球国王から献上されたと伝わる中国風の“あずまや”です。床には秦の阿房宮の床瓦を模した273枚の磚(せん)と呼ばれるタイルが敷き詰められ、内部の壁には王義之の書を写したといわれる額がかけられています。この建物は、歴代の藩主が琉球の使者と面談するときなど に使われました。幕末には第28代島津斉彬が長崎からヤ―パン丸(のちの咸臨丸)に乗って訪ねてきた勝海舟と会談を行った、歴史的に重要な場所でもあります。

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高桝は水の分岐と水量の調節をするための水道設備です。園内の湧き水を石造りの水管で集め、サイフォンの原理を用いてこの高枡から園内の各池に配水しているのだそうです。

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仙巌園にはこの他にも数多くの見どころがあるのですが、時間の関係で、このくらいしか見て回れませんでした。素晴らしい庭園なので、また訪れてみたいと思っています。もちろん晴れて、目の前の桜島がハッキリクッキリと見える時に…。

この仙巌園の名物の両棒餅(りゃんぼうもち:ジャンボ餅)です。ジャンボ餅と呼ばれていますが、決して大きくはありません。

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幕末には第28代当主島津斉彬とその遺志を継いだ人々がこの敷地の一部やその隣接地を使ってヨーロッパ式製鉄所や薩摩切子として有名なガラス工場を建設するなどの近代化事業(集成館事業)を起こしました。ここは安政4年(1857年)に園内の石灯籠にガス管をつないで点火させ、灯火として用いたことから、日本のガス灯発祥におけるルーツの1つとして挙げられる場所にもなっています。

その日本初の近代的工場群である集成館の跡です。ここは近代日本の技術力、工業力の原点ともいえる地であり、平成27年(2015年)7月に、これら史跡・建物を構成資産とする「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録されました。仙巌園の隣には慶応元年(1865年)に建てられた機械工場の建物があり、現在は博物館として利用されています。この博物館には島津家700年の歴史に触れることができる武具や古写真などが展示されています。

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この集成館、エンジニアとしては非常に興味深いところで、是非ゆっくりと見学したかったのですが、団体旅行ですし、定期観光バスなのでそういう我が儘も言えません。鹿児島はこれからも個人的に何度も来ることがあると思うので、その際に是非ゆっくりと訪れてみたいと思っています。ヒカンザクラ(緋寒桜)が満開に咲き誇っていました。

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定期観光バスは予定の周遊箇所を観てまわり、桜島フェリーターミナルを経て、鹿児島中央駅へと戻ります。私達は桜島フェリーターミナルで途中下車し、いよいよフェリーボートを使って桜島に渡ることにしました。この桜島フェリーは鹿児島市内側の桜島フェリーターミナル(鹿児島港)から対岸の桜島港まで約3.5kmの距離を約15分で結んでいます。市営(鹿児島市船舶局の運営)のフェリーで、昼間最短10分間隔、夜間30分間隔、深夜60分間隔の24時間運航を行っています。フェリーは前後に操舵室を設けているため、出航後も方向転換をする必要がなく、桜島フェリーターミナルを出港するとすぐに鹿児島港から出ていって、錦江湾をまっすぐ対岸の桜島港を目指して横切っていきます。

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桜島港から宿泊する国民宿舎レインボー桜島までは徒歩でも7〜8分の距離ですが、あいにくの雨なので電話を入れて桜島港までマイクロバスで迎えに来ていただくことにしました。電話を入れるとオネエは既にチェックインを済ませて部屋で休んでいるようです。よしっ! これで全員が揃います!

フェリーの乗船時間は約15分、国民宿舎に電話を入れたりしていたので、腰を落ちつける間もなく桜島港に到着、下船しました。迎えに来てもらったマイクロバスで国民宿舎レインボー桜島へ。私達が到着するとオネエがフロントのところで待っていてくれました。これで今回の『大人の修学旅行2018in鹿児島』の参加者全員が揃いました! ここからが本番です!

まずは併設されている「桜島マグマ温泉」に浸かり、旅の疲れを癒しました。「桜島マグマ温泉」という名称にちょっとビビりますが、泉質はナトリウム・塩化物泉。地下に染み込んだ海水が地中のマグマで熱せられて湧き出している温泉ってことなんですね、きっと。やっぱ、『大人の修学旅行』の定番は温泉です。癒されます。

ここで事件発生! 温泉から出て、部屋に戻ってきてみると、温泉の脱衣場でバンタローのパンツがなくなって、部屋に戻れなくなっているという連絡が入りました。誰か間違って穿いて来てしまってないか…ということになり、調べてみるとショーちゃんが穿いているパンツを見て「あっ! これ、俺のパンツじゃあない!」 バンタローのパンツを間違って穿いて帰った犯人はショーちゃんらしいということが分かりました。ですが、ここで新たな問題が…。では、そのショーちゃんのパンツを間違って穿いて帰ったのはいったい誰かということになります。これは今をもっても謎のままです(笑) ちなみに、私はそもそもパンツの種類が違うので、まったくの無実です。

毎回、こうしたちょっとした事件が起きて、語り継がれる伝説が積み重なっていくのも私達の『大人の修学旅行』の楽しさです。なんで、毎回毎回このようなちょっとした事件が起きるのかが謎です。やっぱ、このメンバーの中に容疑者がいるに違いありません。ちなみに、下の右の写真はそのショーちゃんのパンツを間違って穿いて帰ったかもしれない容疑者達です。……なぁ〜んてわけ、ないっか(笑)

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宴席は黒牛、黒豚、キビナゴ、薩摩揚げ、そして芋焼酎……、鹿児島の素材をふんだんに使用した旬の会席料理でした。鹿児島の旬の素材を使った会席料理に舌鼓みを打ちながら、それぞれの近況報告や昔話が弾みます。今回、初めて参加してくれたモトム君からは「みなさん、外観はともかく話し方やしぐさは昔(44年前)とまったく同じですね」というコメントが…。そりゃあそうです。基本、44年間、精神的にはほとんど進歩していませんから。今回、オネエが新調した『大人の修学旅行 丸高トラベル』のツアー旗を持ってきてくれました。2代目の旗です。昔からなかなか団体行動が取れないマイペースな連中ばかりが揃っているクラスなので、実はこのツアー旗は『大人の修学旅行』の必需品なんです。

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一次会の宴会が終わると、部屋に戻っての二次会です。和室の部屋だとこれができるからいいんです。いちおう、ほかの宿泊客の皆さんのご迷惑にならないように3部屋並びでとった部屋のうち真ん中の部屋を利用して二次会を開催するようには気を遣っているつもりではありますが、それでも還暦を過ぎたオッサンとオバハンが酒に酔って喋り捲るわけです。夜中までかなりの騒音を撒き散らしたのではないでしょうか?

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今年はウスキとヨシキが高校時代の、特に高校2年生の時の“本当の修学旅行”の写真を持ってきてくれたので、それをネタに大いに盛り上がりました。みんな、あの頃は若かった(幼かった)。女性陣は可愛く、男性陣もイケメン揃いでした。それが40年以上の時を経ると……。これ以上書くと枕がどっかから飛んできそうなので、ここまでにしておきます。ウスキとヨシキが持ってきてもらった写真のうち、私が写っている写真を何枚か掲載します。これが高校時代の私です。

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で、毎年、二次会の最後は、毎回恒例の次回『大人の修学旅行』をどこで開催するか…の議論です。九州の鹿児島までやって来たので、今度は東北地方や北海道、さらには台湾あたりでの開催もありだな…なぁ〜んていろいろと候補地の案が出た中で、オネエが言った「次回は10回目という記念の回だから、“このご縁をいつまでも大切に…”という意味を込めて縁結びの神様のいる出雲大社にしない」という言葉に一同賛同して、次回は山陰島根県の出雲大社&松江市での開催ということに決まりました。幹事は地元香川県在住組。地元香川県在住組にはノリコさん、キョーコさんというグルメ通の女性陣がいらっしゃることから、美味しいものが期待できそうです。冬の山陰地方の味覚といえば蟹。山陰境港産セコガニ(せいこがに)が特に有名です。セコガニ食いてぇ~(^-^)

幹事としては翌日の天気が気になって『HalexDream!』で確認してみると、既に雨雲は大隈半島の東の海上に抜けていて、この桜島付近の雨はあがり、天気は急激に回復しているようです。非常階段の踊り場のところに出て桜島のほうを眺めてみると、暗闇の中にデッカイ桜島のシルエットが微かに見えます。空を見上げると雲の切れ間に星も見えます。こりゃあ2日目は快晴の空の下で桜島観光ができそうです。オォーシ、よっしゃぁ!!


……(その8)に続きます。