2018/05/11
中山道六十九次・街道歩き【第19回: 贄川→宮ノ越】 (その2)
旧中山道はこの「道の駅 木曽ならかわ」を斜めに突っ切っていたようなのですが、今は建物で寸断されているので、「道の駅 木曽ならかわ」の手前から裏側に続く道に出て、「平沢北」の信号で右斜めへ入っていきます。
旧街道らしいなかなか風情のある建物です。「お塗処 吉久屋」となっています。今は漆器の製造と販売をやっているお店のようです。
旧中山道はこの「お塗処 吉久屋」の前で左に入り、塩尻市の楢川支所や塩尻市立図書館楢川分館、JA木曽の楢川支所が建ち並ぶ敷地の中に入っていきます。そのJA木曽の楢川支所の駐車場の傍に松尾芭蕉の句碑と国の「重要伝統的建造物保存地域」に指定されている平沢の案内看板が立っています。
松尾芭蕉の句碑です。
松尾芭蕉の更科紀行にちなんだ句碑で、木曽代官が建てた碑なのだそうです。
「送られつ 送りつはては 木曽の秋」 芭蕉
ちなみに、更科紀行とは江戸中期の俳諧紀行文で、松尾芭蕉の作。元禄元年~2年(1688年~1689年)に門人の越智越人(おちえつじん)を伴い、名古屋から木曽路を通り、更科姨捨山(おばすてやま)の月見をして江戸に帰ったときの旅行記です。越智越人ですか…、なぁ~んか親近感が湧きます。
ここに木曽平沢の案内看板が立っています。木曽平沢は江戸時代末期から昭和時代初期までの漆工町の特徴を伝える建築が多く現存していて、本通り(旧中山道)と金西町および諏訪神社周辺は、平成18年(2006年)に国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けました。
JA木曽の楢川支所の駐車場脇を右に入り、坂道を登っていきます。
短い坂道を登りきると諏訪神社の境内に出ます。弘治元年(1555年)、武田信玄が木曾義康を討った時、この平沢の諏訪神社を本陣としたといわれています。ちなみに、木曾氏は断絶した木曽義仲(源義仲)の嫡流に連なる名族を自称していますが、確かなことは分かっていません。信濃国木曽谷の領主で、当初は小笠原氏や村上氏らと共に甲斐の武田信玄の信濃侵攻に対抗したのですが、弘治元年(1555年)に更なる侵攻を受けて武田家に降伏しました。これにより木曾谷は、甲斐国の属国化を余儀なくされ、武田家の美濃や飛騨への侵攻における最前線基地となりました。諏訪神社らしく、4本の御柱が立っています。
中山道は諏訪神社から石段を下っていきます。
石段を下りきったところに可愛らしい感じの道標が立っています。
その少し先の左手に二十三夜碑が立っています。文化7年(1810年)に建立のもので、こういう石碑では珍しく詳しい案内板が立てられています。それによると、「神に願かけ叶わぬならば、二十三夜さまお立ち待ち」……すなわち、二十三夜供養では月が出るまで飲酒談合して待つのですが、この際、“お立ち待ち”といって月が上がるまで腰を下ろさず立ち続けて待ったのだそうです。
石段を下りきったところに戻り、いよいよ平沢の集落に入っていきます。木曽は狭隘の地が多く、農業に適さず、人々は山の産物で暮しを立てる必要がありました。木曾には檜を始め豊かな森林資源があり、高地の寒冷な気候が漆器造りに適していることもあって、江戸時代を通して中山道随一の漆器生産地として栄えました。今日においても漆器生産量は日本有数を誇っています。中でもこの平沢がその中心となっていました。中山道の街道沿いには漆器を製造、販売している店がたくさん並んでいます。江戸時代には次の宿場である奈良井の方が漆器作りが盛んであったのですが、明治以後、鉄道の駅が平沢に作られたこともあって、平沢のほうが盛んになってきたのだそうです。現在でも平沢の住民の約8割は漆器で生活しているのだそうです。
この平沢の標高は約900メートル。奈良井宿の北東、奈良井川左岸に位置する集落で、16世紀末頃に集落形成が始まったとされています。慶長7年(1602年)に江戸幕府により中山道のルートとして整備されたことで、宿場である奈良井宿の枝郷という位置付けの工人町として発展しました。
また、前述のように、江戸時代末期から昭和時代初期までの漆工町の特徴を伝える建築が多く現存する本通り(旧中山道)と金西町および諏訪神社周辺は、平成18年(2006年)に国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けました。
歴史を感じさせる2階建の切妻造平入の面格子を備えた特徴ある建物が並んでいます。
平沢は万延2年(1861年)の大火後、防災対策として奥行きの深い町割りとし、隣家との間に余地を残し、奥に配置した塗蔵への通路としました。
さすがに国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けただけのことはあります。素晴らしい街並みです。ちなみに中山道で重要伝統的建造物群保存地区に選定されているのは次の奈良井宿と妻籠宿、それとこの木曽平沢だけです。
文化庁HP
これはごく最近に建てられた道標です。
繰り返しになりますが、さすがに国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているところだけあります。宿場ではないものの、素晴らしい街並みです。その街並みもそろそろ終わりです。
平沢の集落を抜け、先に進みます。
奈良井川もかなり上流になってきました。
JR中央本線(西線)の踏切の手前で右側の側道に入り、線路の下を潜って反対側に出ます。奈良井川に沿って微妙なS字カーブを描いているところが旧街道らしいところです。
奈良井川沿いに歩きます。
ここで何故か細い橋を渡ります。
その細い橋を渡った先にあるのが江戸の日本橋から数えて64里目の一里塚「橋戸一里塚」です。説明板によると、「当初中山道は奈良井川左岸にあり、そこに一里塚が設けられていたのだが、いずれかの時期に奈良井川の氾濫があり、中山道が右岸に移され、橋戸一里塚は使われなくなった」のだそうです。現在、橋戸一里塚の周辺は地元の老人のためのパークゴルフ場になっています。旧中山道から外れているため、こりゃあ見落とす人も多いことでしょうね。
細い橋を渡って中山道に戻り、再び中山道を歩きます。奈良井川の対岸に先ほど訪れた橋戸一里塚が見えます。
同じく奈良井川の対岸をJR中央本線(西線)が通っています。列車が走ってきたら鉄道写真のように撮ってやろうと狙ってみたのですが、狙った時って来ないものです。
左側に木造の近代的だけれどちょっと可愛らしい大きな2階建の建物があります。塩尻市立木曽楢川小学校の校舎です。木曽らしい総檜造りの美しい校舎に、女性陣を中心に絶賛の声が上がりました。特に、残念ながら写真には写っていませんが、中央に聳えている時計台がアクセントになっています。いいですね。
道端の畑で作業をしていた地元の農家の方が「これがホオズキの種だ。ここを歩いたお土産に持って帰って庭に蒔いたら、来年、ホオズキの実がなるよ。持ってけ」と言ってホオズキの種子を分けてくれました。せっかくいただいたのでポケットに入れてさいたま市の自宅に持って帰りましたが、いったい来年どうしよう。ホオズキなんて食べられないし……。
奈良井川を奈良井川橋歩道橋で渡り、しばらく歩くと国道19号線から奈良井川橋で分岐した長野県道258号奈良井停車場線と合流し、奈良井川をすぐ左に見ながら進みます。
奈良井大橋へ行く道を右折して橋を渡ります。この奈良井大橋から奈良井宿までは1kmほどです。奈良井川に沿ったなかなか気持ちのよい道が続きます。
JR中央本線(西線)を渡る踏切りの手前で左下を眺めると、山と山の間に流れる「奈良井川」が見えます。この川は写真中央に見える鳥居峠が源流となっています。明日はこの難所・鳥居峠を越えます。
JR中央本線(西線)を踏切で渡ります。
いったん緩い坂を登り、次にJR奈良井駅に向かって徐々に緩い坂を下っていきます。JR奈良井駅が見えてきました。
やがてJR奈良井駅に着きました。駅前に檜でできた立派な「奈良井宿」の標柱が立っています。しばし休憩です。
JR奈良井駅は観光地である奈良井宿の玄関駅で、単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線のホームを持つ比較的規模の大きな駅で、このあたりでは珍しく有人駅なのですが、特急列車は観光シーズン期の臨時停車を除いて停車はなく、鉄道を利用する観光客はあまり多くないようです。また、旧中山道の鳥居峠越えを控え(JR中央本線は次の藪原との間を鳥居トンネルで抜けます)、JR東海の駅では標高934メートルと最も標高が高い駅になります。なぜこの奈良井駅が2面3線のホームを持つ比較的規模の大きな駅なのかは、かつてこの駅が木材の積み出し駅だったからです。駅裏に奈良井営林署の貯木場があり、奈良井川沿いに奈良井森林軌道(黒川軌道)が敷設されていました(昭和29年に廃止)。その名残りです。
塩尻市が運行するコミュニティーバス「塩尻市地域振興バス」の楢川線のマイクロバスがやって来ました。私、こういうローカルバスって大好きで、実は趣味の対象としているのです。
休憩を終え、いよいよ奈良井宿に入っていきます。奈良井宿は、駅の南側すぐの場所から始まります。
……(その3)に続きます。
旧街道らしいなかなか風情のある建物です。「お塗処 吉久屋」となっています。今は漆器の製造と販売をやっているお店のようです。
旧中山道はこの「お塗処 吉久屋」の前で左に入り、塩尻市の楢川支所や塩尻市立図書館楢川分館、JA木曽の楢川支所が建ち並ぶ敷地の中に入っていきます。そのJA木曽の楢川支所の駐車場の傍に松尾芭蕉の句碑と国の「重要伝統的建造物保存地域」に指定されている平沢の案内看板が立っています。
松尾芭蕉の句碑です。
松尾芭蕉の更科紀行にちなんだ句碑で、木曽代官が建てた碑なのだそうです。
「送られつ 送りつはては 木曽の秋」 芭蕉
ちなみに、更科紀行とは江戸中期の俳諧紀行文で、松尾芭蕉の作。元禄元年~2年(1688年~1689年)に門人の越智越人(おちえつじん)を伴い、名古屋から木曽路を通り、更科姨捨山(おばすてやま)の月見をして江戸に帰ったときの旅行記です。越智越人ですか…、なぁ~んか親近感が湧きます。
ここに木曽平沢の案内看板が立っています。木曽平沢は江戸時代末期から昭和時代初期までの漆工町の特徴を伝える建築が多く現存していて、本通り(旧中山道)と金西町および諏訪神社周辺は、平成18年(2006年)に国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けました。
JA木曽の楢川支所の駐車場脇を右に入り、坂道を登っていきます。
短い坂道を登りきると諏訪神社の境内に出ます。弘治元年(1555年)、武田信玄が木曾義康を討った時、この平沢の諏訪神社を本陣としたといわれています。ちなみに、木曾氏は断絶した木曽義仲(源義仲)の嫡流に連なる名族を自称していますが、確かなことは分かっていません。信濃国木曽谷の領主で、当初は小笠原氏や村上氏らと共に甲斐の武田信玄の信濃侵攻に対抗したのですが、弘治元年(1555年)に更なる侵攻を受けて武田家に降伏しました。これにより木曾谷は、甲斐国の属国化を余儀なくされ、武田家の美濃や飛騨への侵攻における最前線基地となりました。諏訪神社らしく、4本の御柱が立っています。
中山道は諏訪神社から石段を下っていきます。
石段を下りきったところに可愛らしい感じの道標が立っています。
その少し先の左手に二十三夜碑が立っています。文化7年(1810年)に建立のもので、こういう石碑では珍しく詳しい案内板が立てられています。それによると、「神に願かけ叶わぬならば、二十三夜さまお立ち待ち」……すなわち、二十三夜供養では月が出るまで飲酒談合して待つのですが、この際、“お立ち待ち”といって月が上がるまで腰を下ろさず立ち続けて待ったのだそうです。
石段を下りきったところに戻り、いよいよ平沢の集落に入っていきます。木曽は狭隘の地が多く、農業に適さず、人々は山の産物で暮しを立てる必要がありました。木曾には檜を始め豊かな森林資源があり、高地の寒冷な気候が漆器造りに適していることもあって、江戸時代を通して中山道随一の漆器生産地として栄えました。今日においても漆器生産量は日本有数を誇っています。中でもこの平沢がその中心となっていました。中山道の街道沿いには漆器を製造、販売している店がたくさん並んでいます。江戸時代には次の宿場である奈良井の方が漆器作りが盛んであったのですが、明治以後、鉄道の駅が平沢に作られたこともあって、平沢のほうが盛んになってきたのだそうです。現在でも平沢の住民の約8割は漆器で生活しているのだそうです。
この平沢の標高は約900メートル。奈良井宿の北東、奈良井川左岸に位置する集落で、16世紀末頃に集落形成が始まったとされています。慶長7年(1602年)に江戸幕府により中山道のルートとして整備されたことで、宿場である奈良井宿の枝郷という位置付けの工人町として発展しました。
また、前述のように、江戸時代末期から昭和時代初期までの漆工町の特徴を伝える建築が多く現存する本通り(旧中山道)と金西町および諏訪神社周辺は、平成18年(2006年)に国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けました。
歴史を感じさせる2階建の切妻造平入の面格子を備えた特徴ある建物が並んでいます。
平沢は万延2年(1861年)の大火後、防災対策として奥行きの深い町割りとし、隣家との間に余地を残し、奥に配置した塗蔵への通路としました。
さすがに国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けただけのことはあります。素晴らしい街並みです。ちなみに中山道で重要伝統的建造物群保存地区に選定されているのは次の奈良井宿と妻籠宿、それとこの木曽平沢だけです。
文化庁HP
これはごく最近に建てられた道標です。
繰り返しになりますが、さすがに国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているところだけあります。宿場ではないものの、素晴らしい街並みです。その街並みもそろそろ終わりです。
平沢の集落を抜け、先に進みます。
奈良井川もかなり上流になってきました。
JR中央本線(西線)の踏切の手前で右側の側道に入り、線路の下を潜って反対側に出ます。奈良井川に沿って微妙なS字カーブを描いているところが旧街道らしいところです。
奈良井川沿いに歩きます。
ここで何故か細い橋を渡ります。
その細い橋を渡った先にあるのが江戸の日本橋から数えて64里目の一里塚「橋戸一里塚」です。説明板によると、「当初中山道は奈良井川左岸にあり、そこに一里塚が設けられていたのだが、いずれかの時期に奈良井川の氾濫があり、中山道が右岸に移され、橋戸一里塚は使われなくなった」のだそうです。現在、橋戸一里塚の周辺は地元の老人のためのパークゴルフ場になっています。旧中山道から外れているため、こりゃあ見落とす人も多いことでしょうね。
細い橋を渡って中山道に戻り、再び中山道を歩きます。奈良井川の対岸に先ほど訪れた橋戸一里塚が見えます。
同じく奈良井川の対岸をJR中央本線(西線)が通っています。列車が走ってきたら鉄道写真のように撮ってやろうと狙ってみたのですが、狙った時って来ないものです。
左側に木造の近代的だけれどちょっと可愛らしい大きな2階建の建物があります。塩尻市立木曽楢川小学校の校舎です。木曽らしい総檜造りの美しい校舎に、女性陣を中心に絶賛の声が上がりました。特に、残念ながら写真には写っていませんが、中央に聳えている時計台がアクセントになっています。いいですね。
道端の畑で作業をしていた地元の農家の方が「これがホオズキの種だ。ここを歩いたお土産に持って帰って庭に蒔いたら、来年、ホオズキの実がなるよ。持ってけ」と言ってホオズキの種子を分けてくれました。せっかくいただいたのでポケットに入れてさいたま市の自宅に持って帰りましたが、いったい来年どうしよう。ホオズキなんて食べられないし……。
奈良井川を奈良井川橋歩道橋で渡り、しばらく歩くと国道19号線から奈良井川橋で分岐した長野県道258号奈良井停車場線と合流し、奈良井川をすぐ左に見ながら進みます。
奈良井大橋へ行く道を右折して橋を渡ります。この奈良井大橋から奈良井宿までは1kmほどです。奈良井川に沿ったなかなか気持ちのよい道が続きます。
JR中央本線(西線)を渡る踏切りの手前で左下を眺めると、山と山の間に流れる「奈良井川」が見えます。この川は写真中央に見える鳥居峠が源流となっています。明日はこの難所・鳥居峠を越えます。
JR中央本線(西線)を踏切で渡ります。
いったん緩い坂を登り、次にJR奈良井駅に向かって徐々に緩い坂を下っていきます。JR奈良井駅が見えてきました。
やがてJR奈良井駅に着きました。駅前に檜でできた立派な「奈良井宿」の標柱が立っています。しばし休憩です。
JR奈良井駅は観光地である奈良井宿の玄関駅で、単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線のホームを持つ比較的規模の大きな駅で、このあたりでは珍しく有人駅なのですが、特急列車は観光シーズン期の臨時停車を除いて停車はなく、鉄道を利用する観光客はあまり多くないようです。また、旧中山道の鳥居峠越えを控え(JR中央本線は次の藪原との間を鳥居トンネルで抜けます)、JR東海の駅では標高934メートルと最も標高が高い駅になります。なぜこの奈良井駅が2面3線のホームを持つ比較的規模の大きな駅なのかは、かつてこの駅が木材の積み出し駅だったからです。駅裏に奈良井営林署の貯木場があり、奈良井川沿いに奈良井森林軌道(黒川軌道)が敷設されていました(昭和29年に廃止)。その名残りです。
塩尻市が運行するコミュニティーバス「塩尻市地域振興バス」の楢川線のマイクロバスがやって来ました。私、こういうローカルバスって大好きで、実は趣味の対象としているのです。
休憩を終え、いよいよ奈良井宿に入っていきます。奈良井宿は、駅の南側すぐの場所から始まります。
……(その3)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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