2018/05/15

中山道六十九次・街道歩き【第19回: 贄川→宮ノ越】 (その3)


JR奈良井駅の脇に奈良井宿の案内板が立っています。この奈良井駅から約800メートルの区間が奈良井宿の中心部でした。

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奈良井宿に入っていきます。

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奈良井宿は奈良井川上流に位置する、標高900メートル台の河岸段丘の下位面に発達した集落です。中山道で江戸の日本橋から数えて34番目の宿場で、木曽路十一宿の江戸側から2番目の宿場。その木曽十一宿の中では最も標高が高いところにあります。文献によると、宿場としての成立は「天文元年(1532年)、木曽義在奈良井に専念寺を建つ。同2年、義在木曽に宿駅を定む」とあることから、16世紀中頃には既に宿場の役割を果たしていたと考えられています。慶長6年(1601年)の江戸幕府による宿駅制定に伴い、近世の奈良井宿として整備されました。

奈良井宿は難所の鳥居峠を控えて宿を取る旅人で栄え、また漆器作りで有名な宿場でもありました。その様は「奈良井千軒」と謳われ、木曽路十一宿で一番の賑わいであったと言われています。奈良井川に沿って約1kmの中山道沿いに町並みが形成されていました。江戸寄りから下町、中町、上町に分かれ、中町と上町の間に鉤の手(枡形)があります。宿は江戸時代そのままに保存され、江戸時代の面影を色濃く残しています。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、奈良井宿の宿内家数は409軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒で宿内人口は2,155人だったそうです。

実は私、今から43年前の大学1年生の秋にこの奈良井宿を訪れたことがあります。確か前期の試験が終わり、後期の授業が始まるまでの間の1週間を使って旅した時に訪れたと記憶しています。当時の私は街道歩きなんてまるで興味がなくて、フォークソングと鉄道ばかりに興味を持っていたのですが、同じ工学部電子工学科で下宿も近所の親しい友人であったH君が夏休みに島崎藤村の「夜明け前」を読んだそうで、それに感化されたのか突然「木曽路を旅したいので一緒に行かないか…」と誘ってくれたのがきっかけでした。当時は私も本をたくさん読んでいたのですが私はもっぱら司馬遼太郎先生の書いた時代小説専門、いっぽうでH君は島崎藤村。まずはそのギャップに驚かされましたね。

もともと信州というところに憧れがあり、なんと言っても旧型国電の聖地と言われた飯田線がありますので、帰りは飯田線を全線乗覇して豊橋に出て広島に戻ってくることを条件に同行を快諾したように記憶しています。

学生の旅でしたので広島から山陽本線(当時はまだ新幹線が岡山までしか開業していませんでした)、東海道本線と主に各駅停車の列車を乗り継いで名古屋へ。さらに名古屋で中央本線に乗り継ぎ中津川へ。中津川から歩き始め、落合宿、馬籠宿、妻籠宿…。宿も決めずに、いざとなったら駅の待合室でも寝りゃあいいや…という寝袋持参の気まま旅でした(なんとか安い民宿に泊まることができたので、寝袋は使うことはありませんでしたが…)。確か三留野(みどの)宿と野尻宿、須原宿は列車を使ってすっ飛ばし、上松宿から街道歩きを再開。福島宿で泊まった時に開田高原に行くといいと地元の人に勧められて、地蔵峠を越えて木曽御嶽山の麓に広がる開田高原まで歩き(帰りは路線バス)、そして福島宿に戻って宮ノ越宿、薮原宿と通ってこの奈良井宿までやって来たように記憶しています。

何度も繰り返しになりますが、当時は街道歩きなんてまったく興味がなかったので、ただ体育会系のようなノリで歩くだけ。それもほとんど国道19号線の脇を歩いたように記憶しています。沿道にある見どころについてもただ素通りしていたように思います。高校時代に流行った笹沢左保原作のテレビドラマ『木枯し紋次郎』の影響もあって、木枯らし紋次郎になりきって先を急いで歩いただけのような旅でした。

本当は奈良井宿から塩尻宿まで歩く予定でいたのですが、またまた地元の人の勧め(「若いんだから権兵衛峠を越えなきゃあ」という“そそのかし”)もあって(後期の授業が始まるので、そろそろ帰らないといけなくなったこともありました)、奈良井宿からは権兵衛峠を越えて伊那谷の伊那市に抜け、そこから飯田線に乗って豊橋へ、そして広島に戻りました。

その43年前に訪れた奈良井宿に再びやって来ました。私の中では43年という長い時間を経て、中山道がほんのちょっとだけですが繋がった感じです。それにしても、奈良井宿に再びこんな形でやって来ることになろうとは思ってもみませんでした。H君は京都にある会社で長年勤めた後、今は郷里の島根県益田市に戻って暮らしています。最近は年賀状をやり取りするだけの間柄になってしまっているのですが、今年の年賀状には「43年前に一緒に行った奈良井に行ってきました。詳しくはWebで…」と添え書きを書いて送りました。彼もこの『おちゃめ日記』を読んで、当時のことを懐かしく思い出してくれるかもしれません。

奈良井宿の建物の大部分は中二階建で、2階を少しせり出した「出梁(だしばり)造りです。屋根は元々は上に石を置いた屋根であったのですが、現在はほとんどの家が鉄板葺きになっています。連子格子や2階の正面に「袖うだつ」を持つものも多く、特徴のある町並みを作っています。奈良井宿は43年前とほとんど印象が変わっていません。奈良井宿の特徴的な建築形式として挙げられるのが「猿頭」です。これは庇板を押さえる桟木のことで、猿の頭が重なったように見えるため「猿頭」の名で呼ばれています。

奈良井宿に入ってすぐのところにある「ちぎりや」は創業寛政年間という老舗で、千切屋萬右衛門という伝説の職人の漆器を展示する「漆資料館」が併設されています。

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専念寺です。寺にいたる坂の途中に「うなり石」と呼ばれる大きな石があり、唸り(うなり)を鎮めるために釘を打ちつけた跡が見られます。本堂の裏手には本願寺の門跡の方などが休まれた部屋である「御殿」があります。

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奈良井宿は同じく木曽十一宿の1つ「妻籠宿」と並んで、中山道六十九次の宿場の中で人気の高い宿場です。他の街道の宿場を合わせても、会津若松から日光へと続く会津西街道の宿場である「大内宿」、中山道と北陸道を結ぶ北国街道の宿場である「海野宿」、東海道五十三次で江戸の日本橋から数えて47番目の宿場である「関宿」と並んで、江戸時代に宿場として栄えた当時の姿を今なお残しているということで、人気ベスト5に必ず入る宿場です。なので、この日も多くの観光客が訪れていました。今や旧宿場ではなく避暑地として多くの観光客を集める軽井沢宿、諏訪大社のある下諏訪宿を除くと、このように観光客の多い宿場を訪れるはホント久し振りのことです。私達がこれまで通ってきた多くの宿場は、私達を除くと地元の方々を含め“ひとっ子一人”歩いていないような非常に寂しい状況だったので、幾分面喰らいます。とは言え、中山道全盛期の繁栄に比べれば遠く及ばないのでしょうが……。

でも、外国人観光客の姿が目立ちます。彼等は日本の古い歴史に興味を惹かれるのでしょう。本当は我々日本人こそ、自国の古い歴史にもっともっと関心を持つべきだと思うのですが。特に若い人達には……。

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奈良井宿は明治時代の道路改修の際に、国道からはずされたため、江戸時代の町並みがそのまま保存され、昭和53年(1978年)に国(文化庁)から「重要伝統的建造物群保存地区」の指定を受け、景観が保護されています。江戸時代の旅籠そのままの旅館や、公民館として使用されている本陣、上問屋史料館として一般に公開されている問屋の手塚家など、往時の様子を今に伝える建物が建ち並び、そのため、江戸時代にタイムスリップしたような素晴らしい風景を十分に楽しむことができます。なので、見どころがいっぱいです。

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また、江戸時代から曲げ物、櫛、漆器などの木工業が盛んで、旅の土産物として人気がありました。特に、江戸時代は隣の平沢よりも漆器の生産が盛んで、旅籠の数は天保14年の記録でも5軒と少ないのですが、商人の家が旅籠の役割を果していたといわれています。それが「奈良井千軒」と呼ばれる所以です。

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渓斎英泉が描いた浮世絵『木曾街道六十九次』の「奈良井」に描かれているのは、おそらくこの店からの風景ではないかと思われます。この絵には致命的とも言える問題があって、それは描かれている店に掲げられている看板の文字。「名物 お六櫛」は奈良井宿ではなく、隣の薮原宿の特産品です。確かに奈良井宿も曲げ物、櫛、漆器などの木工業が盛んで、旅の土産物として人気があったのは事実ですが、「お六櫛」というブランドは薮原宿のものです。薮原宿でお土産の「お六櫛」を買いそびれた旅人もいたでしょうから、奈良井宿の店が薮原宿から「お六櫛」を仕入れて販売するのはまったく問題はありません。しかし、渓斎英泉が奈良井宿を描いた浮世絵の中にその文字が出てくるのは問題ですね。知らない人はこの絵を見て、「お六櫛」は奈良井宿の特産品だと勘違いしてしまいますから。こりゃあ明らかな権利侵害で、いかんでしょう。今なら大問題です(笑) それと、バックに描いた山は鳥居峠のことだと思うのですが、もし描いたのがこの店の前からだとすると構図が左右反対なのですが……。まぁ〜それはあくまでもイメージの絵なので、よしとしますが。(浮世絵の写真は贄川関所資料館で展示されていた“模写品”を撮影したものです)

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「杉の森酒造」です。この杉の森酒造の建物は奈良井宿にある典型的な町屋建築と言われています。切妻平入りの中2階の建物で、通常の2階建てよりは軒が低く、出梁造りとなっています。窓には千本格子を設え、袖うだつがあります。杉の森酒造は寛政5年(1793年)の創業で、軒の下にぶら下がる特大の杉玉(酒林)が造酒屋の歴史を感じさせてくれます。

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『重要伝統的建造物群保存地区』に選定されたことを記念する石碑が立っています。伝統的建造物群保存地区は、文化財保護法第143条第1項または第2項の規定により、周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群で価値が高いもの(伝統的建造物群)、及びこれと一体をなしてその価値を形成している環境を保存するため、市町村が地域地区として都市計画もしくは条例で定めた地区のことです。この市町村が都市計画もしくは条例により定めた伝統的建造物群保存地区の中から、国(文化庁)が特に価値の高いものを重要伝統的建造物群保存地区として選定して保護しています。この制度が生まれたのは昭和50年(1975年)のことで、平成29年11月28日現在、全国で117の地区がこの重要伝統的建造物群保存地区に選定されているのですが、奈良井宿が重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのは昭和53年5月31日のこと。制度が生まれてかなり早い時期に選定されました。この重要伝統的建造物群保存地区は選定された順に文化的価値が高いとも言えるわけで、そういうことからも奈良井宿の文化的価値はかなり高いと言えます。ちなみに、同じ中山道の宿場で妻籠宿が重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのは昭和51年9月4日のことで、先ほど通ってきた木曽平沢が重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのは平成18年7月5日のことです。

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江戸時代に宿場として栄えた当時の姿を今なお残している街並みの中を歩きます。実に素晴らしい街並みです。

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右手奥に大宝寺があります。ここにはマリア地蔵尊という変わった名前のお地蔵様があることで有名なのだそうです。このマリア地蔵尊は昭和7年(1932年)に地元の人が藪の中から掘り出したものだそうですが、抱かれている嬰児が持つ蓮華の先が十字状になっていることから、隠れキリシタンが密かに祀ったものではないかと言われています。

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その大宝寺の先左手に徳利屋という旅籠屋があります。江戸時代には脇本陣を勤め、昭和初期まで旅館として営業し、正岡子規や島崎藤村、幸田露伴も宿泊したといわれています。今は老舗の手打ち蕎麦屋となっており、内部を郷土館として公開もしています。また、2軒隣には観光案内所もあります。ここで、その観光案内所の方から奈良井宿についての説明を受けました。

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徳利屋の先を右に入った奥に「本陣跡」があります。今は公民館が建てられており、往時の面影はまったく残ってなく、「本陣跡」と記された標柱が寂しげに立っているだけです。

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寛政年間より創業している旅篭「ゑちごや(越後屋)旅館」です。寛政年間より木曽路を旅する人々に愛されてきた奈良井宿を代表する旅籠です。

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「御宿 伊勢屋」です。「諸旅人牛馬御休み御泊り所」の看板を掲げる旅館です。江戸時代末期の文政元年(1818年)に建てられた建物で、脇本陣兼下問屋を勤めていました。現在も往時の建物をそのまま保っており、奈良井宿の代表的な建物の1つになっています。確か学生時代(大学2年の時)に友人とこの奈良井を訪れた際、この伊勢屋を訪れたように記憶しています。

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奈良井宿は見どころが多すぎて、短い時間ではすべてを回ることができません。伊勢屋の2軒先が笹屋酒店です。信州木曽は古くより「夏でも寒い」といわれるほど冷涼な地です。昼夜の寒暖差が激しく、日本酒の仕込みが盛んになる冬などは特に寒さが身に沁みます。その気候こそが日本酒づくりに最適の風土で、「七笑」や「中乘りさん」、「杉の森」、「木曽の桟」など多くの銘柄の地酒があります。それをお土産に買い求める参加者が多く、私もお正月用に「杉の森」の小瓶を買い求めました。

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その笹屋酒店の隣が「上問屋資料館」。ここは手塚家が勤めた“上の問屋”で、慶長7年(1602年)から明治維新になって宿場制度が廃止されるまでの約270年間、継続して奈良井宿の問屋を務めてきました。時には庄屋を務めたこともあったそうで、その間に残された多くの文書や道具が展示されています。現在の建物は天保11年(1840年)に建てられたもので、その当時の記録が残されています。明治13年6月16日、明治天皇が御巡幸の際に御在所となった部屋は一番奥の上段の間だったのだそうで、現在もその当時のまま手を加えずに保存されているのだそうです。その「上問屋資料館」の前には「史跡 明治天皇奈良井行在所」の石碑が立っています。

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長泉寺です。この寺は御茶壺道中の本陣に使用されました。山門は奈良井宿の本陣の門を移築したものだそうです。ちなみに、御茶壺道中とは、京都府宇治市の名産品である宇治茶を徳川将軍家に献上するための茶壷を運ぶ行宇治茶列のことで、正式には宇治採茶使(うじさいちゃし)と呼ばれました。

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自由散策時間が設けられたので、奈良井宿を堪能するため奈良井宿の入り口のところまで歩いていったのですが、そこで「木曽の大橋→」の看板を見つけ、JR中央本線の線路の下を潜り、その「木曽の大橋」を観に行きました。

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「木曽の大橋」です。「道の駅 木曽の大橋」の中にある橋で、奈良井川に架けられています。この「木曽の大橋」は、樹齢300年以上の天然木を使った総檜造りの太鼓橋で、長さは33メートル。橋脚を持たない橋としては日本有数の大きさなのだそうです。1億円創生事業の一環として、3.3億円をかけて平成3年に作られました。下から橋を見上げると橋の木組みに目を奪われます。岩国の錦帯橋を彷彿とさせる格好をしています。平成の時代になってから架けられた新しい橋ですが、既に奈良井宿の新名所の1つになっているようです。

集合時間が近づいてきたので、集合場所の観光案内所前に戻ってきました。またここから団体行動での街道歩きの再開です。

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街道は上問屋資料館から5~6軒先で右に曲がっていますが、ここは奈良井宿の京方の「枡形道」。ここでは「鍵の手」と呼ばれているようで、傍らに建てられている碑には「鍵の手碑」と刻まれています。

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このあたりが上町で、すぐ右手に旅籠行燈が置かれた「元櫛問屋 中村邸」があります。塗櫛の創始者である中村恵吉の分家にあたる中村利兵衛の櫛屋で、この建物は天保8年(1837年)の奈良井宿の大火の直後に建てられたものなのだそうです。うだつ、出梁造り、蔀戸(しとみど)、鎧庇(よろいびさし)などに特徴があります。現在は資料館として公開されています。庇板を押さえる桟木の猿頭は奈良井の民家の特徴で、奈良井宿の家の造りの特徴が最もよくわかる建物と言われています。

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まもなく冬至(2017年の冬至は12月22日)、くわえて木曽路は山の中なので日の入りも早く、16時を過ぎるとあたりは薄暗くなります。なんとか景色が楽しめるうちに奈良井宿に到着することができました。中央自動車道のクルマの流れが順調で、当初の予定より若干早く歩けたのがラッキーでした。渋滞に巻き込まれて1時間遅くなっていたら、奈良井宿の趣きのある風景も楽しめませんでした。ほんとラッキーでした。

日暮れが迫り、灯りが付き始めた奈良井宿はそれなりに味わいがあります。

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この日の街道歩きのゴールは奈良井宿の京方の枡形に近い権兵衛橋駐車場でした。権兵衛橋とは木曽と伊那を結ぶ権兵衛街道を開鑿(かいさく)した古畑権兵衛に因んだ名前でしょう。古畑権兵衛は牛方の親方で、伊那谷の米を牛の背に乗せて木曽へ運んで労賃を取って生計をたてていました。元禄のころ峠の開鑿を思い立ち、伊那や木曽の人々を説いて、姥神、鍋懸の二つの峠を越え、木曽町宮ノ越から伊那市坂下までの約36kmの道を開きました。元禄9年(1696年)に開通し、以来この街道は開鑿(かいさく)を主導した古畑権兵衛の名をとって「権兵衛街道」と呼ばれるようになりました。権兵衛街道は宮ノ越からが正式なルートですが、この奈良井からも行く道があります。その道の奈良井宿側の分岐点がこの権兵衛橋のようです。

この日の街道歩きのゴールは奈良井宿のはずれにある権兵衛駐車場でした。

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この権兵衛橋駐車場には旧国鉄のC12形蒸気機関車が静態保存されています。動輪が左右3つ付いたC12形蒸気機関車は、軸重制限のある簡易線規格路線用に設計・開発された小型軽量な蒸気機関車で、本線と呼ばれる区間では使われることはあまりなく、おそらくこの奈良井駅では木材を運ぶ貨物列車の入換用に使用されていたのではないかと思われます。ここに静態保存されているC12形蒸気機関車ですが、保存状態も良く、中のボイラーさえ状態が良ければ、修理して動かすことができそうだな…なぁ〜んて思っちゃいました。それほど手入れが行き届いています。

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権兵衛駐車場の前に権兵衛橋という橋が架かっています。ここで気になる権兵衛なる名称ですが、これはこの奈良井から標高1,523メートルの峠を越えて木曽谷と伊那谷を結ぶ街道(権兵衛街道)を開いた古畑権兵衛なる人物にちなんだものです。権兵衛街道はこの先の宮ノ越宿からの道のことを指すのが一般的ですが、ここ奈良井宿からも道が延びています。観光バスでこの権兵衛駐車場から権兵衛橋を渡り、この日の夕食会場と宿泊するホテルに向かいました。夕食会場は伊那谷側にある高遠、そして宿泊するホテルは伊那にあります。なので、観光バスは権兵衛街道(国道361号線)を伊那谷に向かって走ります。

観光バスの前方に見えた道路標識に「←伊那」の文字があります。この先から権兵衛峠を越えて伊那谷の伊那市に至る権兵衛街道が延びています。

権兵衛峠は木曽川の流れる木曽谷と、天竜川の流れる伊那谷を結ぶ峠です。この木曽谷と伊那谷の間には木曽山脈(中央アルプス)の高い山々が立ちはだかり、長く人々の往来を妨げてきました。そのため、伊那米を木曽へ運搬する場合、塩尻峠や牛首峠を越えるルートでは、奈良井まではよいのですが、その先に鳥居峠が控え、日数や米価など、何かと不便でした。そこで、元禄年間に宮ノ越の神谷集落に住む牛方行司を務めていた古畑権兵衛なる人物が主導して、2年の歳月をかけて伊那へ抜けるこの峠(海抜1,523メートル)の道を開きました。この権兵衛峠、もとは鍋掛峠といい、古畑権兵衛らによってこの鍋掛峠を越えて木曽谷と伊那谷を結ぶ峠道(権兵衛街道)が開かれた際に、権兵衛峠と改名されました。その後は伊那谷から米を木曽谷へ、また木曽谷からは漆器や曲げ物などの工芸品が伊那谷へ運ばれるようになり、その功績に因んで権兵衛峠と呼ばれるようになりました。信濃川水系と天竜川水系の分水嶺であるこの峠からの眺望は素晴らしく、眼下に伊那谷を望み、南アルプスの大パノラマも絶景です。私は43年前にこの権兵衛峠を越えて、歩いて伊那に抜けました。

この当時、この権兵衛峠を越えて木曽谷と伊那谷を結ぶルートにクルマが通ることのできる道路はありませんでした。経ヶ岳林道と呼ばれる道路はあるにはあったのですが、道幅の狭い1車線道路で、木曽谷側と伊那谷側とは必ずしも繋がっているとは言い難い状況でした。その後、この経ヶ岳林道を整備して、冬期を除き車両通行が可能になったことで、昭和57年(1982年)に暫定的に国道として認定し、国道361号線となりました。

その一方で権兵衛峠の下を抜ける権兵衛トンネルの計画と工事が進められ、平成18年(2006年)2月4日に木曽谷側の奈良井と伊那谷側の西箕輪与地を結ぶ高規格道路の「権兵衛峠道路」が開通し、通年の交通が可能になりました。これに伴い、国道361号線は権兵衛トンネルを通る高規格道路のほうに移り、元の経ヶ岳林道区間は旧道となりました。で、現在、国道361号線は「権兵衛街道」と呼ばれていますが、この国道361号線は古畑権兵衛さんの作った本来の権兵衛街道とは大きくコースが異なっています。

観光バスは木曽山脈(中央アルプス)の山々に分け入っていくように東に向かってクネクネ道を進んでいきます。奈良井川の渓谷を挟んで反対岸側に細い道が見えます。そこ道が私が43年前の大学1年生の時に友人のH君と一緒に歩いた道です。その時、対岸の少し高いところにガードレールが見え、ダンプカーが何台も走っているのを見た記憶が微かに残っているので、間違いないでしょう。あそこを歩いたのですね。

奈良井ダムの横を通ります。この奈良井ダムは奈良井川の上流に設けられた高さ60メートルのロックフィルダムで、洪水調節・不特定利水・上水道用水確保を目的とする長野県営の多目的ダムです。建設は昭和41年(1966年)に着手され、昭和57年(1982年)に完成しました。私が権兵衛街道を歩いたのは昭和49年(1974年)のことですので、まさに建設工事真っ最中のことで、前述のように現在走っている道路が開通し、そこを大型のダンプカーが何台も通っていたのを目にした記憶がありますから。その奈良井ダムも完成し、「ならい湖」と名付けられたダム湖(人造湖)が、陽が暮れて薄暗くなった車窓に広がります。

奈良井ダムの先で宮ノ越方向から延びてきた国道361号線と合流し、すぐに権兵衛トンネルに入ります。木曽山脈(中央アルプス)の下を貫く権兵衛トンネルは全長4,467メートル。43年前、あれだけ越えるのに苦労した権兵衛峠を、今やほんの数分で抜け、伊那谷に出ます。あまりに呆気ない感じがしちゃいます。

ちなみに43年前、私達は宿泊した民宿でオニギリのお弁当を作って貰い、午前7時頃に民宿のオジさん(私達をそそのかした張本人)にクルマで途中まで送ってもらって峠越えをスタート。そこから約35kmを13時間ほどかけて歩き、伊那谷側の箕輪に到着しました。9月でしたが、箕輪に着いた時にはあたりは真っ暗になっていました。権兵衛街道と“街道”の文字は付いていますが、途中にまったく人家がなく、はっきり言って登山。途中、伊那谷側から歩いてくる人数人とすれ違い、その人達からその先の情報と励ましを貰いながらの峠越えでした。18歳と若く、おっちょこちょいで、多少無鉄砲なところがあったからできたことだと思います。今だと絶対にやりません。まず体力的に無理です。

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観光バスで奈良井宿の権兵衛駐車場を出発してから約1時間。この日の夕食の会場である高遠の「楽座紅葉軒」というお店です。高遠は伊那谷で言うと東のはずれ、赤石山脈(南アルプス)と伊那山地に囲まれた山間の町です。高遠と言えば桜。高遠城址公園はコヒガンザクラの名所として知られている。このコヒカンザクラ、通常見られるソメイヨシノよりも色の濃い紅色の花を咲かすことに特徴があります。伊豆のカワヅザクラ(河津桜)に似ていますが、群生が見られるのはこの高遠城址公演だけだと聞いたことがあります。私も一度観に行ったことがありますが、それはそれは見事な桜でした。

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高遠城址ということは、この高遠は高遠藩の城下町だったところです。高遠城は、戦国時代、武田信玄の家臣であった山本勘助が縄張りした築城した堅城で、別名「兜山城」。城主は代々武田氏一族が務めました。江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交替。元禄4年(1691年)に内藤清枚が3万3千石で入封以降は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えました。

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この日は横浜からも観光バスが出ていて、夕食会場で合流。大人数での夕食会になりました。いつもながら話が弾みます。1人参加の人がほとんどなのですが、一緒に峠を越えたりして連帯感も強く、皆さんすっかり顔馴染みになっているので、古くからの知り合いのようにいい感じです。

この伊那谷の高遠周辺は「信州そば発祥の地」なのだそうです。

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奈良時代の初め、修験道の開祖・役小角は修業のため信州に入り、小黒川を遡って駒ヶ岳を目指しました。途中、内の萱で村人たちに温かくもてなされた役小角は、お礼として蕎麦(そば)の実を置いていきました。村人達はこの蕎麦を大切に育て、信州全体に広めたのです。

江戸時代の初めの寛永8年(1631年)、高遠藩の藩主となった保科正之(に江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の四男)はことのほか蕎麦が好きで「辛つゆ(大根おろしの汁に焼味噌を入れたつゆ)」で食べる「行者そば」が大好物でした。その後、保科正之は寛永13年(1636年)に山形最上藩、寛永20年(1643年)に福島会津藩へ転封する時も、そば職人や穀屋などを連れて行ったほどだったと言われています。保科正之は高遠城の慣わしである客人に対するもてなし料理「辛つゆそば」をそば職人とともに奥州へ移したのでした。のちの、四代将軍家綱の後見役として江戸に詰めた27年間にも好んで信州そばを食し、江戸中期以降に花開いた江戸の「そば文化」にも大きく影響したと言われています。現在も残る山形の「寒ざらしそば」や会津の「高遠そば」は信州そばの伝播の証しであり、信州伊那から山形、会津へそして江戸へと大きく広がっていきました。

高遠では蕎麦は郷土食として各家庭で脈々と途切れることなく受け継がれきており、「そばの打てない女性は嫁にはいけない」と言われるほどの日常食として根付いていた地域であるがゆえに、商売としては成り立ちにくく、長年、町内にはそば屋はほとんど存在していませんでした。それが平成9年(1997年)に交流のため福島県会津若松市を訪れた高遠の人達が、「高遠そば」という名称で蕎麦が商売として成り立っている状況を目の当たりにし、平成10年(1998年)より、高遠の飲食店関係者らによって組織された「高遠そばの会」が中心となって、会津の蕎麦屋の支援を受け「高遠そば」を地域活性化の為の事業として取り組むことを開始したのだそうです。逆輸入ってやつですね。

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外に出るとこの日は満月で、まん丸いお月様が夜空に浮かんでいました。

この日の宿泊ホテルは「ルートイン伊那」。大浴場に浸かって歩き疲れた身体を癒し、2日目の街道歩きに備えるため、早めに寝ました。

この日は20,548歩、距離にして15.0km歩きました。


……(その4)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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