2018/06/01

中山道六十九次・街道歩き【第19回: 贄川→宮ノ越】 (その8)

さらに進むと、人家が現れ、徐々に宮ノ越宿に入っていくのを実感します。

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これは見事な干し柿(つるし柿)です。

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古い道祖神が立っています。

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手塚家です。ここに「有栖川宮小休所跡碑」が建っています。

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有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)は皇族で、中山道を歩くとたびたびその名を目にする皇女和宮(和宮親子内親王)と婚約していたことで知られています。しかし、皇女和宮との婚約は徳川幕府の権力失墜に伴い破談。公武合体を余儀なくされた幕府が、公武合体を国内外に誇示するための実績として皇女和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚しました。この和宮との婚約解消は明治以降、小説や講談など大小の脚色がなされて庶民の間に「悲恋のストーリー」として流布し、数々の伝説を生み出すことになります。

その後、戊辰戦争が勃発した際、有栖川宮 熾仁親王は自ら志願し、勅許を得て、「東征大総督」として西郷隆盛らに補佐されて新政府軍を率いて東海道を下り、江戸に入城しました。この道中の早い段階で、熾仁親王は恭順を条件に慶喜を助命する方針を内々に固めていたと言われています。有栖川宮 熾仁親王が新政府軍を率いて江戸に向かった際には東海道を使ったので、おそらく有栖川宮 熾仁親王がここに立ち寄ったのはその帰りか、明治の時代になってからのことではないか…と推察されます。

有栖川宮小休所跡碑(手塚家)の前には木曽川が流れています。木曽川の向こうをJR中央本線の線路と国道19号線が走っています。

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このあたりに木曾義仲が治承4年(1180年)に以仁王の命令を受けて平家追討の旗挙げの際、戦勝を祈願したといわれる「旗挙(はたあげ)八幡宮」があります。社殿の傍らの大欅(けやき:周囲約12メートル、樹高約30メートル)は義仲の元服を祝って植えられたとされていて、樹齢800年余と推定され、落雷、台風等に傷つきながらも御神木として生き続けているのだそうです。時間の関係で立ち寄れませんでした。

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葵橋を渡ります。橋の名称の由来になった葵御前も木曾義仲の便女(びんじょ)の1人で、常に木曾義仲の傍につき従い、各地を転戦し足取りを残しています。倶利伽羅合戦に加わるのですが、そこで討ち死にしています。この葵御前の生涯は謎に包まれているとされています。

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歌川広重(安藤広重)が描いた浮世絵『木曾街道六十九次』の「宮ノ越」に描かれているのはこの葵橋の風景ではないかと言われています。(浮世絵の写真は贄川関所資料館で展示されていた“模写品”を撮影したものです)

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宮ノ越宿に入っていきます。

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宮ノ越宿(みやのこしじゅく)は中山道六十九次の宿場の中で江戸の日本橋から数えて36番目の宿場です。中山道のちょうど中間地点に位置し、脇街道である伊那へぬける権兵衛街道との追分(分岐点)ともなっていました(奈良井宿からの道もあります)。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、宮ノ越宿の宿内家数は137軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒で宿内人口は585人だったそうです。明治16年に大火にあい、本陣以下宿内のほとんどの建物が焼失してしまい、旧跡はあまり残っていませんが、出梁造りの家をいくらか見ることはできます。このように宿場自体はあまり特徴のある宿場ではなく、むしろ木曾義仲(源義仲)が幼少期を過ごし、治承4年(1180年)に以仁王の命令を受けて平家追討の挙兵をした地として知られています。

木曾義仲は河内源氏の一門の源義賢の次男として生まれました。幼名は「駒王丸」。『平家物語』や『源平盛衰記』によれば、父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男(義仲にとって従兄)義平に討たれてしまいました。『吾妻鏡』によれば、当時2歳の駒王丸にも義平によって殺害の命が出されたのですが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷に逃れ、中原兼遠の庇護下に育ち、後に元服し木曾次郎源義仲と名乗りました。

治承4年(1180年)に後白河法皇より平家追討の命を受け、木曽の地で旗挙げを行い、その後北陸に進撃しました。越中国礪波山の倶利伽羅峠の戦いで10万とも言われる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、続く篠原の戦いにも勝利して勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍。入京を果たした後、征夷大将軍に任ぜられました。

しかし、皇位継承問題への介入したことや京の治安回復に失敗したことで後白河法皇の逆鱗に触れ、後白河法皇の策略によって出兵してきた源範頼・義経率いる鎌倉軍に宇治川の戦い、粟津の戦いで相次いで敗戦。粟津ヶ原(あわつがはら:滋賀県大津市)で討死。31歳の短い生涯でした。

ここまで巴渕、旗挙八幡宮など木曾義仲ゆかりの地を見てきましたが、さらに宮ノ越宿の宿内には2才で父を討たれた木曾義仲を幼少から養育した中原兼遠の菩提寺である「林昌寺(りんしょうじ)」や木曾義仲の墓がある「徳音寺」など、木曾義仲ゆかりの旧跡が数多く残されています。また、木曾義仲の生涯を人形や絵画を使って紹介する「義仲館(よしなかやかた)」があり、その入口に義仲・巴御前の銅像が建っています。

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遠くに木曽山脈(中央アルプス)の最高峰木曽駒ヶ岳(標高 2,956メートル)の山容がハッキリ見えます。木曾義仲もこの木曽駒ヶ岳を見ながら育ったのでしょうね。

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ここで地元の観光ボランティアガイドさんから木曾義仲の生涯を中心に、宮ノ越宿の説明を受けました。木曾義仲軍は京の都に入城して乱暴狼藉の限りを尽くしたので討たれたとか、木曾義仲は女好きで巴御前、山吹御前、葵御前といった美女を周囲にはべらせて、ハーレムのような暮らしを送っていたとか、私達が習った小説や歴史ドラマでは木曾義仲は粗野で乱暴な極悪人のように描かれることが多いのですが、地元木曽では大ヒーローです。京の都で木曾義仲軍は治安維持の任を担っていたけれど、あまりに荒れ放題だったので治安維持に失敗しただけだ!…とか、一夫一婦制は現代日本人の感覚で言っているだけで、小児医療が今ほど進んでいない当時は跡継ぎを残すために一夫多妻制は当たり前のことで、ハーレムのような暮らしでもなんでもない!…とか木曾義仲を必死で弁護するエピソードの数々でメチャメチャ面白かったです。私もこの観光ボランティアガイドさんの説には大いに賛同します。

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木曾義仲のことが詳しく書かれている『平家物語」も『源平盛衰記』も『平家物語』も鎌倉時代以降に書かれた書物であり、あくまでも時の政権を正当化することが目的で書かれたものであると考えられますので、必ずしも歴史の真実が書かれているとは限りません。特に、木曾義仲を討った源頼朝・範頼・義経兄弟は木曾義仲とは従兄弟であり、親族を討った(殺した)わけなので、そこには誰もが納得するような正当な理由が必要となります。それが木曾義仲軍は京の都に入城して乱暴狼藉の限りを尽くしたので討たれたとか、木曾義仲は女好きで巴御前、山吹御前、葵御前といった美女を周囲にはべらせて、ハーレムのような暮らしを送っていたといった一連の話なのでしょう。まぁ〜、鎌倉幕府が必死になって作り上げたエピソードだと考えてみたほうがいいですね。

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ここでしばしの自由時間です。義仲館も面白そうだったのですが、私は義仲館の裏にある徳音寺のほうに行ってみることにしました。

臨済宗妙心寺派の寺院「日照山徳音寺」です。この徳音寺は仁安3年(1168年)に木曾義仲が母・小枝御前を葬った寺で、木曾義仲(源義仲)一族の菩提寺です。境内には木曾義仲をはじめ義仲の母の小枝御前、愛妾の巴御前、山吹御前、忠臣の樋口兼光、今井兼平の墓、義仲の遺品などを展示した宣公資料館があります。

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立派な山門を入ります。

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本堂の前に馬に乗った巴御前の像が立っています。

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巴御前ゆかりの「つらぬき石」です。傍に説明書きがあり立っていますが、要は巴御前が愛馬に跨がって野駆けをした際、力が余って馬の蹄が岩を割った跡らしいです。

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徳音寺の境内の奥に木曾義仲の墓があります。傍らには巴御前、母・小枝御前、山吹御前、今井兼平、樋口兼光・巴御前の墓が並んでいます。

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一番奥に鎮座する、これが木曾義仲の墓です。

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これは木曾義仲の愛妾(便女)であった巴御前の墓です。巴御前は享年91歳。当時としてはかなりの長寿だったのですね。さすがはこの木曽の山中で鍛えられた賜物なのでしょう。

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樋口次郎兼光の墓です。樋口次郎兼光は、中原兼遠の次男で今井兼平、巴御前の兄。今井兼平と同じく木曾義仲の乳母子にして股肱の臣。義仲四天王の一人です。弟の今井兼平と共に忠臣として木曾義仲に仕え、治承・寿永の乱においては義仲挙兵に従って各地を転戦。倶利伽羅峠の戦いなどで重要な役割を果たし、平家を都から追い落として木曾義仲と共に入京しました。木曾義仲が粟津の戦いで討ち死にした際、樋口次郎兼光は義仲に離反した源行家・源義資を討伐するため河内国石川へ出陣していたのですが、主君・木曾義仲の死を知って京へ戻る道中で源義経の軍勢に生け捕られました。その後、義仲らの首と共に検非違使に身柄を引き渡され、斬首されました。戦国時代の武将、上杉景勝の重臣であった直江兼続は樋口次郎兼光の子孫であるといわれています。

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これは木曾義仲の母・小枝御前と、木曾義仲の愛妾(便女)であった山吹御前の墓です。『平家物語』によると、山吹御前は巴御前とともに木曾から京へと付き添ってきたのですが、義仲が粟津の戦いで討ち死にした際には病で動けなかったため同行できなかったといわれています。享年31歳ですか…。

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今井四郎兼平の墓です。【第18回】の洗馬宿「邂逅(あうた)の清水」のところでも書きましたが、今井四郎兼平は木曾義仲の一番の忠臣で、中原兼遠の子で、木曾義仲の乳母子。木曾義仲が寵愛した巴御前の兄にあたります。義仲四天王の1人で、側近として最後まで木曾義仲の傍で仕え、粟津の戦いで木曾義仲が討ち死にした際には、主君の後を追って壮絶なやり方で自害をしたと伝えられています。

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今回の『中山道六十九次・街道歩き【第19回】』はこの宮ノ越宿にある義仲館がゴールでした。鳥居峠のところで宿場としてはちょうど半分を過ぎたということを書きましたが、この宮ノ越宿と次の福島宿の間に「中山道中間点」の案内板が建っています。ここは江戸・京双方からちょうど67里38町の地点。距離においても中山道の中間点です。やっと半分、まだまだ半分って実感します。

この日は25,526歩、距離にして18.6km歩きました。

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ここで重大な発表(大袈裟か?)をしないといけません。去年(2016年)の5月に江戸の日本橋を出立してから19回(私は第16回は不参加)に渡ってこの宮ノ越宿まで歩いてきた『中山道六十九次・街道歩き』ですが、私はここで一度中断しようと決断いたしました。歩く区間が東京から離れてきて、旅行会社の企画もここから先は2泊3日のコースとなるため、参加のたびに平日に休みを取る必要があるのが最大の理由です。また、江戸の日本橋から数えて宿場の数でも距離的にもちょうど半分のところにまでやって来たので、いいタイミングかな…と思っています。加えて、本文でも書きましたが、中津川宿から奈良井宿までは43年前の大学1年生の時に歩いているので、それと繋がる奈良井宿は私の中ではずっと前から1つの区切りと考えていました。

もちろん京都の三条大橋まで歩くのを諦めたわけではありません。宮ノ越宿からは先は現役を引退して時間に余裕ができたら、絶対に踏破したいと思っています。おっと、その前に途切れてしまった【第16回】長久保宿→和田宿→和田峠(登り)の区間だけはなんとしても歩いて、江戸の日本橋から宮ノ越宿までを繋いでおこうと思っています。

その代わりと言ってはなんですが、年明けの1月から今度は甲州街道の街道歩きにチャレンジしようと思っています。中山道と同じく江戸の日本橋から今度は西に向かって歩き、内藤新宿、八王子、甲斐国(山梨県)の甲府を経て、信濃国(長野県)の下諏訪宿までの53里24町20間(210.8km)、39宿の旅です(45宿という数え方もあるようです)。

実は中山道六十九次・街道歩きの【第17回】で下諏訪宿に着いた時、中山道と甲州街道の合流点、すなわち甲州街道の終点を見ました。その時、不思議な感じを受けました。同じ江戸の日本橋を出て諏訪湖のほとりまでやって来た中山道と甲州街道が真正面から衝突するのです(その地点で中山道は右折して京を目指します)。同じところを出立した道が右と左からぶつかり合う…、これはちょっとした衝撃でした。

しかも現代の感覚からすると、碓氷峠や和田峠といった難所を越えて武蔵国、上野国、信濃国とグルっと北を迂回する中山道と比べて甲斐国を経由するだけの甲州街道のほうが絶対に便利なはずです。東京から諏訪湖に行こうとすると、道路なら迷うことなく中央自動車道を使います。関越自動車道と上信越自動車道を使おうという発想はなかなか湧きません。鉄道でも中央本線の「特急あずさ」を使うのが一般的で、高崎線や北陸新幹線を使って諏訪湖に行こうという発想は湧きません。

しかし、明治の時代に入るまでは中山道のほうがメインとなる幹線ルートでした。多くの大名が参勤交代に中山道を使い、皇女和宮も中山道を使って江戸幕府第14代将軍・徳川家茂のもとに降嫁しました。

実際、江戸の日本橋から下諏訪宿までの距離を調べてみると、中山道を使うと55里6町14間(216.7km)、甲州街道を使うと前述のように53里24町20間(210.8km)。僅かに6kmほどの差でしかないのに驚きます。あれだけグルっと遠回りしてきたように思えて、さほど距離は違わないのですね。しかし、不思議なのは宿場の数。中山道の場合、下諏訪宿は江戸の日本橋から数えて29番目の宿場であるに対して、甲州街道では39番目の宿場で終点です(45番目という数え方もあるようです)。距離は6km短いのに、宿場の数は10個も多い。甲州街道にも小仏峠や笹子峠といった有名な峠はあるのですが、中山道の碓氷峠や和田峠ほどの難所ではありません。難所が続くので宿場が多いのか…と思ってみたのですが、そんな感じでもありません。

この謎を解くには実際に歩いてみるしかない!……そう思って、甲州街道を歩いてみることを決断しました。

で、『甲州街道あるき』の第1回は日本橋を出発して和田倉御門、日比谷、四谷御門を経て内藤新宿(西新宿付近)まで歩きます。五街道の原点(起点)に再び戻って、新たな街道歩きのスタートです。まずは江戸の町を歩きます。大都会東京、超近代都市東京の中で、昔の甲州街道の跡がどのくらい見つかるか、楽しみです。


――――――――〔完結〕――――――――