2014/09/19

明治29年9月琵琶湖大洪水

前回、滋賀県彦根で極めて記録的な大雨が降ったことを、気象庁統計資料を使って紹介した。この事例をさらに掘り下げてみる。彦根では、記録的な大雨の前後の3日~12日にかけて雨が続き、この間の総雨量は1000㎜を超えた。彦根の平年の年降水量は1570.9㎜なので、この10日間で年間の2/3の雨が降ったことになる。

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この時、周囲の都市ではどのような雨の降り方をしたか、彦根を挟んで西側と東側の観測点の値と共に表にしてみた。西側の京都と大阪では、この間の雨量は300㎜に達していない。一方、東側の岐阜では彦根とほぼ同じ1000㎜を超える大雨となっており、日雨量100㎜以上が5日連続している。また、名古屋でも日雨量が100㎜を超えた日が3日あり、期間雨量は700㎜を越えている。

この表から、岐阜と彦根の雨の降り方は同じ傾向であるが、京都とは明らかに違う。これから、名古屋、岐阜方面から彦根方面に湿った空気の流入しやすい状況が続いて、大雨となったと見られる。

この期間、どのような気象状況であったかを、天気図で見ることにする。9月4日~12日までの8日間の天気図を並べ、若干、私なりに再解析を試みた。当時は8時間間隔で天気図を作成していた。

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ここでは日々の14時の天気図を用いた。当時の気圧の報告は水銀柱の高さ(mmHg)で行われており、等圧線の引き方は5mmHgを基本としている中で752mmHgや757mmHgといった等間隔にならない等値線を解析するなど、比較的自由に解析していたようだ。また、当時は現在の天気図のように前線の概念はなく、等圧線の形状から見られる気圧配置と前時刻からの気圧の変化などにより、天気分布との対応などを見るほかなかった。現在の説明では「前線が停滞し雨が降っている」と、現象と天気を結び付けた表現をするが、このころの天気図の解説は、低気圧中心と気圧の変化を述べた後、天気分布の記述があるが、因果関係は不明な場合が多い。

そこで、気圧配置、天気分布及び気温分布などを参考に、現在の気象の知識を使って当時の状況を推測した。この期間の前半(図の上段部分)は前線上を小低気圧が通過したと見られるので、大よその前線位置を赤破線で表現してみた。また、日本の南海上に低圧部が存在しており、はるか南には熱帯低気圧(台風)があったと推測できる。後半の11日の天気図では、高知の気圧が大きく下がり、このすぐ南に熱帯低気圧(台風)が解析されており、これは、12日には関東地方を通過したと見られる。この中間の時間の天気図とのすり合わせは行っていないが、九州南東海上まで、北上して後、北東に進路を取ったと見られる(図中の青点線矢印)。

次に、彦根の降水をもう少し詳細に図にしてみた。天気図は8時間毎に作成しているが、当時、観測は4時間毎に行っており、気象庁HPには4時間降水量が示されている。記録的な雨が降った7日は1時間に30~50㎜程度の非常に激しい雨が16時間近く続いていた。これは、前線上の小低気圧に向かって伊勢湾方面からの湿った空気の流入が続いたためで、低気圧が北東方向に進んだ後は雨の降り方は弱まっている。しかし、引き続き当地方の近くには前線が停滞していたため、雨が続き、熱帯低気圧が四国沖に近づいたころに雨が強まった。

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この大雨により、琵琶湖の水位が上がり、7日6時には+1.68mであったのが、8日6時には+2.68m、9日6時には+3.10mに達し、11日には台風の接近で彦根では雨が少なかったが周囲では大雨となり、午後11時に+4.09mを記録した(記録としては+3.76mが最高潮位として残っている)との資料がある(滋賀県資料)。
琵琶湖の水位は、平成7年(1995)5月の洪水時に+0.93mを記録したのが近年としては最高であり、この事例が桁違いの洪水であったことが判る。この時の洪水は翌年春まで続き、浸水日数は237日にも及んだとの記録が残されている。
滋賀県内の被害は死者29人、行方不明5人、流出家屋1749棟、全壊家屋1251棟、床上、床下浸水家屋58391棟、という甚大なものであった(滋賀県災害誌より)。琵琶湖の洪水以外の被害については、探し出せなかったが、土砂災害も頻発したと思われる。