2015/08/10
戦後70年 一番電車が走った
今年は戦後70年。各地で様々なイベントが開催されているほか、テレビや新聞等でもこの戦後70年を記念した特集が、幾つも取り上げられています。
70年も経つと、実際に戦争を体験した人も数少なくなっています。現在88歳の父は、終戦時は18歳。広島の逓信講習所を出て、逓信省職員(電報オペレーター)として広島県の因島にある郵便局に赴任した直後でした。もう少し戦争が長引いていれば、通信兵として軍隊に入隊するところでした。86歳の母は当時16歳。旧制女学校の生徒でしたが、徴用動員され、艇身隊として愛媛県西条市にあった機械工場で日の丸の鉢巻きをしめて、飛行機(どうも赤トンボと呼ばれる初級練習機のようです)の製造に従事していました。
私は両親から当時のことをよく聞かされて育ちました。両親からは「当時は勉強したくてもできなかった。今は勉強しようと思えば際限なく勉強ができるのだから、自由に勉強ができる喜びとありがたさを感じて、しっかり勉強しろ!」というようなことを、子供の頃、何度も聞かされたものです。また、両親とも戦後の貧しく食糧難の時代を生きて来たので、「食べ物を粗末にするな!」ということを何度も聞かされました。
父は7人兄弟姉妹の四男でしたが、3人の兄と1人の義兄(私にとっては伯父)は徴兵され、満州とインドネシア、フィリピンで戦いました。伯父の1人は士官だったため、酷寒のシベリアに6年間も抑留された後に帰還しました。
私は終戦から10年半経った昭和31年の2月の生まれなので、両親や親戚だけでなく、私が子供の頃は極々身近にこのような“戦前”&“戦中”、さらには“終戦直後”というものが残っていました。学校の先生の中にも戦争に行ったという先生がいらっしゃいましたし、街を歩けば、戦場で腕や脚をなくされた傷痍軍人さんの姿がふつうにありました。なので、戦争というものがさほど遠いものではなかったように思います。
その後昭和25年(1950年)から昭和28年(1953年)にかけて、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡る国際紛争(朝鮮戦争)が起こり、その戦争特需で我が国は焼け野原の中から目覚ましく復興を遂げ、私が生まれた1956年(昭和31年)7月に発表された経済白書「日本経済の成長と近代化」には、「もはや『戦後』ではない」という言葉が結びに付けられました。
その2年前、1954年(昭和29年)12月から1973年(昭和48年)11月までの約19年間は年平均10%以上の驚くべき経済成長を達成し、『高度経済成長期』と呼ばれ、日本経済は飛躍的な成長を遂げました。特に1960年代には1964年東京オリンピックの開催や1970年に開催された大阪万博などによる特需などがあり、東海道新幹線や東名高速道路といった大都市間の高速交通網も整備され、1968年には国民総生産(GNP)が、当時の西ドイツを抜き第2位となりました。戦後、焼け野原で何もないところから世界第2位の経済大国まで上り詰めたというのは世界的に見ても例が無く、第二次大戦終戦直後の復興から続く一連の経済成長は「東洋の奇跡」とさえ呼ばれました。
そうした中、悲惨な戦争の記憶は急速に風化していったように思えます。昭和30年前後に生まれた私の世代は、直接戦争を経験した世代ではないのですが、間接的とは言え、まだ戦争というものを身近に肌身で感じた最後の世代なのではないか…と言えるかもしれません。
私は広島で4年間の大学生生活を送りました。私が大学に入学した昭和49年(1974年)は、広島に原子爆弾が投下され、一面の焼け野原の焦土と化してから29年が経過し、もう既に近代的な都市へと生まれ変わっていました。街中にビルが立ち並び、多くの人が溢れていましたが、そうした中にも当時は原爆の記憶が色濃く残っていました。
身近なところでは、広島大学の本部キャンパス(東千田キャンパス)にあった理学部は戦前からの煉瓦作りの建物が当時も使われていましたが、爆心地の方角の北側の壁面一面は煉瓦がそのまま崩れたまま保存されていました。大学の本部キャンパスは爆心地(原爆ドームの周辺)からは2kmほど離れていましたが、煉瓦を吹き飛ばしてしまうほどの爆風が襲ってきたということです。また、工学部のキャンパス(南千田キャンパス)はその本部キャンパスから南へ1kmほど離れていたのですが、原爆による火災の延焼はその工学部(当時は広島高等工業学校)のグラウンドで止まったとかで、工学部は私が学んだ当時も、戦前に建てられた木造の校舎がそのまま使われていました。
(大学に行ってエアコンも効かない木造の校舎で学ぶことを知った時には、メチャメチャ驚きましたが…。当時は今の東広島市への大学の移転が計画されており、工学部がまず最初に移転することになっていたので、古い校舎をそのまま使い続けていたのでしょう、きっと。私の在学中に少年ジャンプ誌に中沢啓治氏の自身の原爆の被爆体験を元にした自伝的漫画『はだしのゲン』が連載され、その実写映画が1976年に制作されたのですが、私が通っていた広島大学工学部の木造校舎はゲンの兄が入隊する海軍兵学校のロケに使われ、東側の窓ガラスは全てイギリス国旗のように十字にバッテンの飛散防止のための白いテープが貼られていました。ロケ終了後もしばらくはそのテープが貼られたまま講義などで使われていたので、ちょっと異様な光景でした。また、海軍兵学校のロケ現場でしたから、校門のところに歩哨が立つボックスも設置されていて、これもロケ後しばらくそのまま残っていました。)
本部キャンパス(東千田キャンパス)のすぐ近くには日本赤十字社の広島原爆病院(現在の広島赤十字・原爆病院)がありました。また、親しい友人の中の家族の中にも少なからず被爆者がいらっしゃいましたし、被爆二世として被爆者手帳を持ち歩いている友人も何人かいました。
その原爆投下直後の広島を舞台としたテレビドラマの放映が今日(8月10日)の19時30分からNHK総合テレビであります。NHK広島放送局が制作した『戦後70年 一番電車が走った』という感動のドラマです。
NHK番宣HP
番宣HPによると、昭和20年8月9日、一台の路面電車が焦土と化した広島の街を走り始めた。生き残った電鉄会社の社員が原爆投下の翌日から復旧作業を始めていたのだ。曲がったレールに槌を振り下ろし、架線を張り直す。被爆からわずか3日後に、一部の路線で運転再開にこぎつけた。……とあります。このドラマはその奇跡の運転再開に奔走した広島電鉄職員と徴用されて運転士となった少女達の実話をもとにしたドラマです。
私は大学時代の一時期、広島電鉄の路面電車の車掌のアルバイトをやったことがあります。南千田にあった工学部のキャンパスの前に広島電鉄の本社と車庫があって、朝、そこから宇品、広島駅と車掌として一往復してから授業を受けていました(通常はワンマン運転ですが、朝のラッシュ時間帯だけは停車時間を短くすることを目的に中ほどの乗車用のドアからも降車させるため、車掌を乗せたツーマン運転でした)。時には、戦前に作られた車両で、原爆により半壊したものの、その後、原型に近い形で復旧し、被爆から70年を経過した現在も使われている車両があり、その車両に乗務することもありました。
その時、広島電鉄の方々とも話すことがあったのですが、彼等はこの被爆3日後に電車の運転を再開させたことを一番の誇りにしていました。広島では、今も、日本の大都市で唯一、街中を縦横無尽に走る路面電車が市民の足として大活躍していますが、その裏側にはこうした歴史的事実があったわけです。
皆さん、是非ご覧ください。こういう歴史的な事実はどんなに年月が経っても決して風化させてしまってはいけない…と、私は思っています。
70年も経つと、実際に戦争を体験した人も数少なくなっています。現在88歳の父は、終戦時は18歳。広島の逓信講習所を出て、逓信省職員(電報オペレーター)として広島県の因島にある郵便局に赴任した直後でした。もう少し戦争が長引いていれば、通信兵として軍隊に入隊するところでした。86歳の母は当時16歳。旧制女学校の生徒でしたが、徴用動員され、艇身隊として愛媛県西条市にあった機械工場で日の丸の鉢巻きをしめて、飛行機(どうも赤トンボと呼ばれる初級練習機のようです)の製造に従事していました。
私は両親から当時のことをよく聞かされて育ちました。両親からは「当時は勉強したくてもできなかった。今は勉強しようと思えば際限なく勉強ができるのだから、自由に勉強ができる喜びとありがたさを感じて、しっかり勉強しろ!」というようなことを、子供の頃、何度も聞かされたものです。また、両親とも戦後の貧しく食糧難の時代を生きて来たので、「食べ物を粗末にするな!」ということを何度も聞かされました。
父は7人兄弟姉妹の四男でしたが、3人の兄と1人の義兄(私にとっては伯父)は徴兵され、満州とインドネシア、フィリピンで戦いました。伯父の1人は士官だったため、酷寒のシベリアに6年間も抑留された後に帰還しました。
私は終戦から10年半経った昭和31年の2月の生まれなので、両親や親戚だけでなく、私が子供の頃は極々身近にこのような“戦前”&“戦中”、さらには“終戦直後”というものが残っていました。学校の先生の中にも戦争に行ったという先生がいらっしゃいましたし、街を歩けば、戦場で腕や脚をなくされた傷痍軍人さんの姿がふつうにありました。なので、戦争というものがさほど遠いものではなかったように思います。
その後昭和25年(1950年)から昭和28年(1953年)にかけて、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡る国際紛争(朝鮮戦争)が起こり、その戦争特需で我が国は焼け野原の中から目覚ましく復興を遂げ、私が生まれた1956年(昭和31年)7月に発表された経済白書「日本経済の成長と近代化」には、「もはや『戦後』ではない」という言葉が結びに付けられました。
その2年前、1954年(昭和29年)12月から1973年(昭和48年)11月までの約19年間は年平均10%以上の驚くべき経済成長を達成し、『高度経済成長期』と呼ばれ、日本経済は飛躍的な成長を遂げました。特に1960年代には1964年東京オリンピックの開催や1970年に開催された大阪万博などによる特需などがあり、東海道新幹線や東名高速道路といった大都市間の高速交通網も整備され、1968年には国民総生産(GNP)が、当時の西ドイツを抜き第2位となりました。戦後、焼け野原で何もないところから世界第2位の経済大国まで上り詰めたというのは世界的に見ても例が無く、第二次大戦終戦直後の復興から続く一連の経済成長は「東洋の奇跡」とさえ呼ばれました。
そうした中、悲惨な戦争の記憶は急速に風化していったように思えます。昭和30年前後に生まれた私の世代は、直接戦争を経験した世代ではないのですが、間接的とは言え、まだ戦争というものを身近に肌身で感じた最後の世代なのではないか…と言えるかもしれません。
私は広島で4年間の大学生生活を送りました。私が大学に入学した昭和49年(1974年)は、広島に原子爆弾が投下され、一面の焼け野原の焦土と化してから29年が経過し、もう既に近代的な都市へと生まれ変わっていました。街中にビルが立ち並び、多くの人が溢れていましたが、そうした中にも当時は原爆の記憶が色濃く残っていました。
身近なところでは、広島大学の本部キャンパス(東千田キャンパス)にあった理学部は戦前からの煉瓦作りの建物が当時も使われていましたが、爆心地の方角の北側の壁面一面は煉瓦がそのまま崩れたまま保存されていました。大学の本部キャンパスは爆心地(原爆ドームの周辺)からは2kmほど離れていましたが、煉瓦を吹き飛ばしてしまうほどの爆風が襲ってきたということです。また、工学部のキャンパス(南千田キャンパス)はその本部キャンパスから南へ1kmほど離れていたのですが、原爆による火災の延焼はその工学部(当時は広島高等工業学校)のグラウンドで止まったとかで、工学部は私が学んだ当時も、戦前に建てられた木造の校舎がそのまま使われていました。
(大学に行ってエアコンも効かない木造の校舎で学ぶことを知った時には、メチャメチャ驚きましたが…。当時は今の東広島市への大学の移転が計画されており、工学部がまず最初に移転することになっていたので、古い校舎をそのまま使い続けていたのでしょう、きっと。私の在学中に少年ジャンプ誌に中沢啓治氏の自身の原爆の被爆体験を元にした自伝的漫画『はだしのゲン』が連載され、その実写映画が1976年に制作されたのですが、私が通っていた広島大学工学部の木造校舎はゲンの兄が入隊する海軍兵学校のロケに使われ、東側の窓ガラスは全てイギリス国旗のように十字にバッテンの飛散防止のための白いテープが貼られていました。ロケ終了後もしばらくはそのテープが貼られたまま講義などで使われていたので、ちょっと異様な光景でした。また、海軍兵学校のロケ現場でしたから、校門のところに歩哨が立つボックスも設置されていて、これもロケ後しばらくそのまま残っていました。)
本部キャンパス(東千田キャンパス)のすぐ近くには日本赤十字社の広島原爆病院(現在の広島赤十字・原爆病院)がありました。また、親しい友人の中の家族の中にも少なからず被爆者がいらっしゃいましたし、被爆二世として被爆者手帳を持ち歩いている友人も何人かいました。
その原爆投下直後の広島を舞台としたテレビドラマの放映が今日(8月10日)の19時30分からNHK総合テレビであります。NHK広島放送局が制作した『戦後70年 一番電車が走った』という感動のドラマです。
NHK番宣HP
番宣HPによると、昭和20年8月9日、一台の路面電車が焦土と化した広島の街を走り始めた。生き残った電鉄会社の社員が原爆投下の翌日から復旧作業を始めていたのだ。曲がったレールに槌を振り下ろし、架線を張り直す。被爆からわずか3日後に、一部の路線で運転再開にこぎつけた。……とあります。このドラマはその奇跡の運転再開に奔走した広島電鉄職員と徴用されて運転士となった少女達の実話をもとにしたドラマです。
私は大学時代の一時期、広島電鉄の路面電車の車掌のアルバイトをやったことがあります。南千田にあった工学部のキャンパスの前に広島電鉄の本社と車庫があって、朝、そこから宇品、広島駅と車掌として一往復してから授業を受けていました(通常はワンマン運転ですが、朝のラッシュ時間帯だけは停車時間を短くすることを目的に中ほどの乗車用のドアからも降車させるため、車掌を乗せたツーマン運転でした)。時には、戦前に作られた車両で、原爆により半壊したものの、その後、原型に近い形で復旧し、被爆から70年を経過した現在も使われている車両があり、その車両に乗務することもありました。
その時、広島電鉄の方々とも話すことがあったのですが、彼等はこの被爆3日後に電車の運転を再開させたことを一番の誇りにしていました。広島では、今も、日本の大都市で唯一、街中を縦横無尽に走る路面電車が市民の足として大活躍していますが、その裏側にはこうした歴史的事実があったわけです。
皆さん、是非ご覧ください。こういう歴史的な事実はどんなに年月が経っても決して風化させてしまってはいけない…と、私は思っています。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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