2016/05/25

男の隠れ家(その1)

誰にも邪魔されない自分だけの“秘密基地”、“隠れ家”を持つ‥‥これって男の子なら誰でもが抱く憧れなのではないでしょうか。そんな男の憧れを実現した私の友人がいます。私と同じく広島大学鉄道研究会の創設メンバーの1人で、今は広島県廿日市市の中学校で技術科の教師をやっている長澤靖クン(有名人なので、敢えて本名を書かせていただきます)。

同じく広島大学鉄道研究会の創設メンバーの1人で、私と一緒にフォークソングもやっていたヤマダ君(某エンジンメーカー勤務の技術屋)が昨年東京に単身赴任で異動してやってきたので、過日久し振りに(20年以上振りに)東京で逢ったのですが、その際、ヤマダ君から「昨年の年末、長澤が修学旅行の引率で東京にやって来た時にホント久し振りに彼に逢いました。その時、長澤から聞いたのですが、長澤は定年退職後に備えてのことだと思うのですが、どうも趣味を楽しむための“隠れ家”らしき家(別荘)を持ったそうなんです。で、いつかその“隠れ家”に遊びに来ないかと言ってきているのですが、今度一緒に行きませんか?」‥‥とのお誘いがありました。長澤クンとも年賀状のやり取りは毎年欠かさずやっていて、彼が年賀状に描いてくるイラストで、このところいろいろと多趣味にはまっているらしいことはなんとなく知っているのですが、ここ20年ほど逢っていませんので詳しくは分かりません。私も還暦を迎え、これまでの人生を振り返っていろいろと思うところが多くなってきましたので、その話を聞いて大学時代の懐かしい旧友に逢ってみたくなり、そのヤマダ君のお誘いに二つ返事でOKしちゃいました。

で、GW中に1泊2日で広島市近郊の大竹市にあるという長澤靖クンの“隠れ家”を訪問してみることにしたのでした。大学を卒業して38年、これまでも仕事での出張や大学時代の恩師の葬儀、兄のように慕っていた従兄の葬儀などで何度か広島を訪れたことはあるのですが、こうして旧友に逢うためだけに広島を訪れるのは初めてのことです。確か、20年以上前に長澤クンの自宅を訪問させていただいた時も、出張で広島市を訪れたついでに立ち寄ったように記憶しています。

他になんら目的を持たず、ただ単純に懐かしい旧友に逢うためだけに広島まで新幹線で出掛けるって、なんとも贅沢な時間の使い方のような気がします。この日はよく晴れて、東海道・山陽新幹線の車窓の景色が眩しく感じられます。これまで何度も見てきたお馴染みの車窓の風景ですが、私の気持ちが違うのが大いに影響しているのか、ちょっと違った景色のように目に映ってきます。大学を卒業して就職のため東京に出てくる時は団子っ鼻が特徴的な0系新幹線の「ひかり」でした。当時は広島から東京まで5時間以上もかかり、東京は随分と遠いところのように感じたのですが、今はN700系「のぞみ」で約4時間。たった1時間ちょっとの差かもしれませんが、随分と近く感じられるようになったものです。

下りの山陽新幹線に乗ると広島駅に到着する直前にMAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島(広島市民球場)のすぐ横を通るのですが、この日は地元の広島東洋カープが中日ドラゴンズを迎えてのデーゲームの試合をやっているようで、新幹線の車窓からもカープのレプリカユニフォームを着た応援団で一面真っ赤に染まった観客席の様子が見えます。広島の市民球団だけに広島カープの応援団は熱狂的なことで有名です。

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広島東洋カープは大東亜戦争の敗戦から僅か5年後の1950年に、原爆による壊滅的な被害からの復興のシンボルとして広島市を本拠地として創設されたプロ野球のチームです。カープとは“鯉”のこと。広島市を流れる太田川が鯉の産地であり、また、原爆によって焼け落ちた広島城が「鯉城」と呼ばれていたので、広島カープと命名されました。親会社を持たない市民球団として結成されたという他の球団と比較して特異な歴史を有するプロ野球チームで、設立当初は資金難を補うために、球場の前に樽を置いて、市民からの義援金(募金)を募ったという逸話も残されています。地元広島に本社を構える自動車のマツダがチームの3分の1以上の株式を保有する筆頭株主ではあり、球団名にある“東洋”もマツダの旧社名である東洋工業に由来しますが、今もマツダは広島東洋カープを持分法を適用しない非連結子会社と位置づけていて、親会社として球団経営への積極的な関与は行っていません。

親会社を持たない市民球団だったこともあり、戦力の補強費用も潤沢ではなく、毎年のように最下位争いを繰り広げる弱小チームだったのですが、1975年、球団初の外国人監督であるジョー・ルーツを監督に迎えたことでチームは一気に生まれ変わります(ちなみに、その前年まで3年連続の最下位でした)。燃える闘志を前面に押し出そうという意味を込めて帽子とヘルメットを真っ赤に変更。ここから「赤ヘル軍団」の愛称が付き、チームの快進撃が始まります。ジョー・ルーツ監督は開幕早々の阪神タイガース戦における球審の判定を巡って猛抗議。試合のボイコットを起こすまでの大騒動を起こして僅か15試合の指揮を執っただけで辞任。古葉竹識さんが急遽コーチから監督に就任するのですが、これで選手達の闘争心に一気に火がついたのか、その後広島東洋カープは快進撃を続けます。この年のオールスターゲームの第1戦(甲子園球場)では出場した山本浩二選手と衣笠祥雄選手が共に1試合2本塁打を記録するなど、「赤ヘル旋風」を巻き起こします(フィクション映画でもここまでは描けません)。最初は半信半疑だった広島市民をはじめファンの皆さんも、「もしかしたら‥‥」と悲願の初優勝という“夢”を意識し始めたのも、このオールスターゲームからでした。

中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、10月15日の巨人戦(後楽園球場)に勝利し、球団創立25年目にして悲願の初優勝を達成しました(日本シリーズではパ・リーグ覇者の阪急ブレーブスと対戦するも4敗2分で敗退)。この年の広島東洋カープには、首位打者となった山本浩二選手や衣笠祥雄選手、最多勝投手となった外木場義郎投手や佐伯和司投手、盗塁王の大下剛史選手‥‥と、今から振り返ってみると全盛期を迎えていた選手達がキラ星のごとく揃っていたように思えます。またこの年は春に山陽新幹線が岡山駅から博多駅まで延伸開業し、チームの遠征時の列車乗車時間が大幅に短縮されたことも快進撃の大きな要因になったのではないか‥とも言われています。優勝後に平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集め、これをきっかけに、この翌年から平和大通りを中心とした広島市最大のイベント「フラワーフェスティバル」が開催されるようになりました。この年の観客動員は120万人で、球団史上初めて100万人を突破しました。

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この広島東洋カープが悲願の初優勝を果たした1975年、私は大学2年生でした。毎年、鯉のぼりのシーズンまで‥と言われた広島東洋カープが鯉のぼりがしまわれた季節になっても首位争いをしているのも見て、大いに興奮したのを覚えています。私だけでなく、広島の町中が大興奮していたような感じでした。市内は広島東洋カープの赤い帽子を被った人達で溢れ、急遽発売された塩見大治郎さんが歌う応援歌『それ行けカープ 〜若き鯉たち〜』が町中に始終大音量で流れていました (今も広島東洋カープの応援歌として歌われている『それ行けカープ』はこの時に作られたものです。耳にタコができるくらい聴いたので、私は今でも歌詞カードを見なくても3番まで歌えます。広島大学の校歌は歌ったこともないので、覚えていませんが‥‥)

大学の先生方も興奮していたようで、今はもう時効でしょうから暴露しちゃいますが、9月に行われたその年の前期の試験では、国立大学である広島大学でも単位の恩赦を出してくれる(講義に出席さえしていれば、試験の点数にかかわらず単位を出してくれる)先生が続出(教養課程だけですが‥)。私もその恩赦のおかげで少なくとも8単位を取得し、無事に4年間で卒業することができました。

そうした興奮を経験し、単位の恩赦までいただいた広島東洋カープでしたので、私もそれからしばらくは阪神タイガースファンから広島東洋カープファンに“移籍”していました。その後も広島東洋カープの快進撃は止まらず毎年のように優勝を争うチームに変身。1979年、1980年、1984年とセ・リーグ制覇を果たし、その3年は日本シリーズにも優勝し、黄金期を迎えます(1986年と1991年にもリーグ優勝)。しかし、1985年、何が起こったのかそれまで長く低迷していた阪神タイガースが突如覚醒。リーグ優勝を果たしたことで私の中に10年間封印していた阪神タイガースファンのDNAも覚醒。魔がさしてしまったのでしょうね、きっと。それからずっと熱烈阪神タイガースファンと公言し、暗黒界(ダークサイド)を歩んでいます。基本的にダメな奴らを応援したくなる困った性格なんです、私σ^_^; (今の金本知憲監督も新井貴浩選手も広島東洋カープからFAで阪神タイガースに移籍してきた選手で、広島東洋カープと阪神タイガースって、どこかシンクロしちゃうようなところがあるのです。)

とは言え、広島東洋カープは今も阪神タイガースの次に応援しているプロ野球チームで、阪神タイガースが広島東洋カープに負けても、「まぁ〜仕方ないな」と思い、それほど悔しいという感情は湧いてきません。それにしても、広島東洋カープの鮮やかな真っ赤なユニフォーム、眩しくって目に痛いほどです。最近は「カープ女子」といって、広島東洋カープを応援する若い女性が地元広島だけでなく日本中で異常に増殖しているようで、羨ましいくらいです(阪神タイガースの女性ファンは圧倒的にガラの悪そうなオバちゃんばっかりですし‥)。あの新井さん(新井貴浩選手)も阪神タイガースから広島東洋カープに戻り、2,000本安打を達成するなど活躍しているようですし、私もまた広島東洋カープファンに戻ってもいいかな‥‥と、真っ赤に染まったMAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島の観客席を眺めながら思ったりもしましたが、少なくとも阪神タイガースが次にセ・リーグ制覇するまでは阪神タイガースファンを続けたいと思っています(そうすると、おそらく死ぬまで熱烈阪神タイガースファンのままかもしれません・笑)。

いかんいかん、広島ネタということで、思いっきり脱線してしまいました f^_^;)


‥‥‥‥(その2)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス前代表取締役社長 越智正昭

株式会社ハレックス
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越智正昭

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