2016/05/27
男の隠れ家(その2)
広島東洋カープの初優勝という嬉しい出来事があった私の広島でも大学生活ですが、必ずしも充実したものではなかったように思えます。私が入学した当時の広島大学では、まだ大学紛争の燃えかすのようなものが日常的に燃え盛っていました。日本の学生運動が最も盛り上がりを見せたのは、1960年の安保闘争、さらには1968年から1970年にかけての全共闘運動による大学紛争の時期で、私が大学に入学した1974年には、社会が豊かになったことでの政治離れや内ゲバなど過激な運動への忌避から、全国的に下火になってきていました。しかしながら、原爆が投下されて幾多の一般市民が犠牲になった被爆地・広島にある広島大学では伝統的に反戦運動が盛んで、東京や京都・大阪の大学を追放されたり排斥されたりした各大学の学生の活動家達は広島大学に集まり、大学紛争の火が完全に消える前の最後の輝きのように妙な盛り上がりを見せていました。
彼ら活動家は、学生自治会や様々なサークルを拠点に過激な内容のビラ(アジビラ)を学内に撒き散らし、ポスター、立て看板(タテカン)で大学キャンパスの至るところを汚し、大勢集まっては校内集会や講演会、学習会などのイベントを繰り返し開催していました。時には拡声器を使って授業前の教室や昼休みの広場などで勝手に演説を始めて自らの独りよがりな主張をアピールするのですが、それにより休講になる講義が続出。果てはバリケードを築き、誰も学内に入れないようにして広島県警の機動隊と対峙する過激な事態まで発生(入学式が学内で行えず、急遽会場が広島市の公会堂に変更されて行われたくらいでした)。
このように希望に夢を膨らませて入学した大学は、荒れ放題に荒れているような状態で、私のエンジニアを目指して勉強しようというモジベーションが一気に下がった記憶があります。私は活動家達が言っていることに何の興味も湧かず、大学問題や政治問題にもまったく関心がない“ノンポリ”と呼ばれるごくごく普通の理系の学生でしたので、彼等はただただ迷惑なだけの存在でした。どこに活動家が潜んでいるかまったくわからないような状態でしたので、工学部の先輩の忠告に従ってどこのサークルにも属さず、ただただバイトと旅行(乗り鉄)、それとただ単純に女の子にモテたいという下心から始めたギターとフォークソングに明け暮れる毎日でした(講義があるかどうかさえ、その日にならないと分からないような毎日でしたから)。
今から思えば、広島東洋カープ初優勝の恩赦も、そういう普通の学生達を不憫に思った先生方の粋な計らいだったのかもしれません。加えて、広島大学の学内で吹き荒れた大学紛争の嵐も、人々の意識が広島東洋カープの快進撃のほうにばかり向いていっているうちにいつの間にか収まって、平和なキャンパスに戻っていっていったように感じています。楽しくみんなで大騒ぎできる新たな対象が見つかって、自分達がこれまでやってきたことをバカらしく思った活動家も間違いなくいたのではないでしょうか。真相はよく分かりませんが‥‥。それにしても、あの甚だ迷惑なだけの存在だった活動家と呼ばれていた学生達は、今、いったい何をして暮らしているのでしょうね。
そうした中で、同じく広島東洋カープが初優勝を果たした2年生の時、大学の本部キャンパスの目の前にあった書店で鉄道雑誌を立ち読みしていた時に、同じ工学部電子工学科の1年後輩のクスモト君と出逢い、鉄道マニア同士で意気投合。お互いの下宿を行き来しては鉄道談義に花を咲かる間柄になりました。そのうちクスモト君の友人のフクシマ君やササキ君とも知り合い、徐々に鉄道好きの輪が広がっていって、いつの間にか自然発生的に同好会のようなものが生まれました。実はかつて広島大学にも鉄道研究会と呼ばれるサークルがあったようなのですが、大学紛争の嵐の中でいつの間にか消滅してしまっていたのでした。それを図らずも復活させてしまったわけです。これも広島東洋カープの初優勝で広島の町中に「よぉ〜し、俺達もなにかやってやろう!」と勢いのようなものが漲っていたことの効果なのかもしれません。翌年の4月(すなわち、私が3年生になった時)の入学式で手作りのビラを配り、新入会員の募集を行いました。その時に入会してくれたのが長澤クンとヤマダ君達でした。その時の合計11名(確か)が創設メンバーと呼ばれるコアな旧友達です。
当時は部室もなく、会員の下宿や自宅に集まっては朝まで鉄道談義をしたり、写真の撮影旅行に行ったり、ただただ列車に乗りに行ったり‥‥というような活動をやっていました。一口に鉄道趣味といっても撮り鉄、乗り鉄、車両鉄(車両好き)、時刻表鉄、鉄道模型‥‥と幅が広いのでまったくまとまりがないサークルでしたが、そんなの関係なく、やっと大学の中で自分の居場所を見つけられたようで、嬉しかったですね(私自身は積極的に活動できたのは3年生の時の1年間だけでしたが‥‥)。めいめい好き勝手に活動していたのがかえって功を奏したのか、鉄道趣味の受け皿が拡大したことで、なんと私が4年生になった2年目には女子学生も含め総勢50名近い大所帯のサークルにまで膨れ上がり、創設から僅か2年で大学の公認サークルとして認められ、念願の部室も確保して、40年経った今に至っています。
絶滅危惧種と言われ続けながらも、40年経った今も活動を続けているということなので、ネットで検索してみたのですが……、
(広島大学鉄道研究会HP)
随分と更新をしていないようで、OBとしてはこりゃあ問題であると思っています。ちなみに、トップ画面のトップの『汽車旅サークルてっけん 広島大学文化サークル団体連合鉄道研究会』の左隣のなんとも不思議なマークは私がサラサラッと描いた広島大学鉄道研究会のシンボルマークで「フルコ・マーク」と言います。“フルコ”とはH.U.R.C(Hiroshima University Railfan Circle)のことです。最初に私が描いた時は女性ウケするようにもう少し可愛らしかったと記憶しているのですが、時間が経つうちに徐々に“退化”していったようです。また、「鉄研のうた」というページがありますが、この「鉄研のうた」、正式には「ローカル線の詩(唄にあらず)」と言いますが、作詞・作曲とも不肖・私、越智正昭です。
(鉄研のうた)
“詩”と書いて“うた”と読ませる‥‥、当時はこういうのが流行りました。私は、学生時代、作詞だけを含めると30曲くらい曲を書いたのですが、残っているのは僅か30分くらいの短い時間でササって感じで書いたこの『ローカル線の詩』だけですね。本当は3コーラス目まで詞を書きたかったのですが、2コーラス目で完結した感じになってしまいそれ以降が書けなかったので、私の中では未完のままの楽曲なんです。作曲及びギターの演奏はあまり得意ではなかったので、C、F、G、G7、D、D7‥‥といった初心者でも演奏できるような簡単なコードばかりの羅列です。「“とりあえず”こういう感じの曲を付けてみたんだけど、どう? できたら曲を作り直して欲しいんだけど」って相方のヤマダ君と長澤クンに試しに歌って聴かせたら、「このままでいいんじゃあないですか」ってことになって、この曲ができました。青春、やっていました ♪(´ε` )
その広島大学鉄道研究会の創設メンバーの中でも、私は2年後輩のヤマダ君と長澤クンとはフォークソングという鉄道以外の共通の趣味もあり、たいへんにウマが合い、よく行動を共にしていました。長澤クンは“軽便鉄道”マニアという鉄道趣味の中でも極めてマイナーでマニアックな趣味の持ち主で、創設メンバーの中でもひときわ異彩を放っていました。 影響力も抜群で、入学時にはSL(蒸気機関車)中心の撮り鉄だったヤマダ君は長澤クンと出逢ったことで軽便鉄道に目覚め、今も軽便鉄道の廃線跡を訪ねるのを趣味としています。基本“乗り鉄”のオールラウンダーだった私も、あと1年長く大学にいたら、長澤クンから洗脳されて間違いなく軽便鉄道マニアのダークサイドに堕ちていた(笑)と思っています。
ちなみに、軽便鉄道とは、建設費・維持費の抑制のため低規格で建設された鉄道のことです。日本における軽便鉄道は、法規的には「軽便鉄道法」に基づいて建設された鉄道のことを指し、軌間幅はJRなどで使用されている1,067mm(3フィート6インチ)未満(狭軌)に制限され、日本では軌間幅762mm(2フィート6インチ)である事例がほとんどです。軌間幅が狭いだけでなく、軽量なレールが使用され、地形的な制約を克服するために急曲線・急勾配の区間が多いという特徴を持ちます。このため運転速度が低く、輸送力も小さく、産業が未成熟で限定的な輸送力しか必要とされない地域(はっきり言うと“田舎”)に建設される事例がほとんどでした。
一般的な営業鉄道のほか、森林鉄道や殖民軌道、鉱山鉄道など、鉄道法規の規定によらない低規格の鉄道も含まれ、建設が容易であることから、軽便鉄道は1920年代には陸上交通機関として全国各地に爆発的に普及していきました。軽便鉄道は鉄道の長所である高速大量輸送能力に乏しく、路線バスの普及とモータリゼーションの進展によって、1970年代までにほぼ全ての路線が次々と廃止されていきました。現在、軽便鉄道は、営業鉄道としては、四日市あすなろう鉄道(元近畿日本鉄道)内部・八王子線、三岐鉄道北勢線、黒部峡谷鉄道の3路線が残るのみで、産業用としても国土交通省立山砂防工事専用軌道が工事用として、また、黒部峡谷鉄道の支線にあたる関西電力黒部専用鉄道がダムへの資材輸送用として、屋久島の安房森林軌道が森林鉄道として現存しているだけです。(ちなみに、「四日市あすなろう鉄道」の社名は、未来への希望と、内部・八王子線が軌間762mmという狭軌“ナローゲージ”であることから命名されたものだそうです。)
私の学生時代にもそれら今も現存する鉄道路線のほかに岡山県の下津井電鉄など幾つかの路線が営業路線として残っていただけで、軽便鉄道マニアとはほとんどが廃線跡マニアのような様相を呈していました。なので、鉄道マニアとしては、めちゃめちゃディープでマニアックなジャンルに属します(ちなみに、こうした背景から、長澤クンが中心となった広島大学鉄道研究会・軽便鉄道部会は自らを「The田んぼ」と称していました)。
大学に入学した18歳の当時からこんな鉄道マニアの中でもめちゃめちゃディープでマニアックなジャンルにドップリと嵌っていた長澤靖クンには、今考えても驚くしかありません。なんで少年期からこんな渋すぎる世界に嵌ってしまうことができたのか‥‥、感受性という点では、おそらく彼は通常の人の何倍も高いものを持っているのかもしれません。理系のわりには日本の歴史が大好きで、受験勉強で身につけた知識を遥かに超越するくらいにやたらと詳しかったですし、彼は同じものを見ても、見えている景色が私達常人とは根本的に異なるところがあるのではないか‥‥と思ったりしたことが何度もありました。
こういう長澤靖クンが作ったという“隠れ家”です。いったいどういう“隠れ家”なのか私の頭では想像もつかず、ただただ期待だけが膨らみます。
‥‥‥‥(その3)に続きます。
彼ら活動家は、学生自治会や様々なサークルを拠点に過激な内容のビラ(アジビラ)を学内に撒き散らし、ポスター、立て看板(タテカン)で大学キャンパスの至るところを汚し、大勢集まっては校内集会や講演会、学習会などのイベントを繰り返し開催していました。時には拡声器を使って授業前の教室や昼休みの広場などで勝手に演説を始めて自らの独りよがりな主張をアピールするのですが、それにより休講になる講義が続出。果てはバリケードを築き、誰も学内に入れないようにして広島県警の機動隊と対峙する過激な事態まで発生(入学式が学内で行えず、急遽会場が広島市の公会堂に変更されて行われたくらいでした)。
このように希望に夢を膨らませて入学した大学は、荒れ放題に荒れているような状態で、私のエンジニアを目指して勉強しようというモジベーションが一気に下がった記憶があります。私は活動家達が言っていることに何の興味も湧かず、大学問題や政治問題にもまったく関心がない“ノンポリ”と呼ばれるごくごく普通の理系の学生でしたので、彼等はただただ迷惑なだけの存在でした。どこに活動家が潜んでいるかまったくわからないような状態でしたので、工学部の先輩の忠告に従ってどこのサークルにも属さず、ただただバイトと旅行(乗り鉄)、それとただ単純に女の子にモテたいという下心から始めたギターとフォークソングに明け暮れる毎日でした(講義があるかどうかさえ、その日にならないと分からないような毎日でしたから)。
今から思えば、広島東洋カープ初優勝の恩赦も、そういう普通の学生達を不憫に思った先生方の粋な計らいだったのかもしれません。加えて、広島大学の学内で吹き荒れた大学紛争の嵐も、人々の意識が広島東洋カープの快進撃のほうにばかり向いていっているうちにいつの間にか収まって、平和なキャンパスに戻っていっていったように感じています。楽しくみんなで大騒ぎできる新たな対象が見つかって、自分達がこれまでやってきたことをバカらしく思った活動家も間違いなくいたのではないでしょうか。真相はよく分かりませんが‥‥。それにしても、あの甚だ迷惑なだけの存在だった活動家と呼ばれていた学生達は、今、いったい何をして暮らしているのでしょうね。
そうした中で、同じく広島東洋カープが初優勝を果たした2年生の時、大学の本部キャンパスの目の前にあった書店で鉄道雑誌を立ち読みしていた時に、同じ工学部電子工学科の1年後輩のクスモト君と出逢い、鉄道マニア同士で意気投合。お互いの下宿を行き来しては鉄道談義に花を咲かる間柄になりました。そのうちクスモト君の友人のフクシマ君やササキ君とも知り合い、徐々に鉄道好きの輪が広がっていって、いつの間にか自然発生的に同好会のようなものが生まれました。実はかつて広島大学にも鉄道研究会と呼ばれるサークルがあったようなのですが、大学紛争の嵐の中でいつの間にか消滅してしまっていたのでした。それを図らずも復活させてしまったわけです。これも広島東洋カープの初優勝で広島の町中に「よぉ〜し、俺達もなにかやってやろう!」と勢いのようなものが漲っていたことの効果なのかもしれません。翌年の4月(すなわち、私が3年生になった時)の入学式で手作りのビラを配り、新入会員の募集を行いました。その時に入会してくれたのが長澤クンとヤマダ君達でした。その時の合計11名(確か)が創設メンバーと呼ばれるコアな旧友達です。
当時は部室もなく、会員の下宿や自宅に集まっては朝まで鉄道談義をしたり、写真の撮影旅行に行ったり、ただただ列車に乗りに行ったり‥‥というような活動をやっていました。一口に鉄道趣味といっても撮り鉄、乗り鉄、車両鉄(車両好き)、時刻表鉄、鉄道模型‥‥と幅が広いのでまったくまとまりがないサークルでしたが、そんなの関係なく、やっと大学の中で自分の居場所を見つけられたようで、嬉しかったですね(私自身は積極的に活動できたのは3年生の時の1年間だけでしたが‥‥)。めいめい好き勝手に活動していたのがかえって功を奏したのか、鉄道趣味の受け皿が拡大したことで、なんと私が4年生になった2年目には女子学生も含め総勢50名近い大所帯のサークルにまで膨れ上がり、創設から僅か2年で大学の公認サークルとして認められ、念願の部室も確保して、40年経った今に至っています。
絶滅危惧種と言われ続けながらも、40年経った今も活動を続けているということなので、ネットで検索してみたのですが……、
(広島大学鉄道研究会HP)
随分と更新をしていないようで、OBとしてはこりゃあ問題であると思っています。ちなみに、トップ画面のトップの『汽車旅サークルてっけん 広島大学文化サークル団体連合鉄道研究会』の左隣のなんとも不思議なマークは私がサラサラッと描いた広島大学鉄道研究会のシンボルマークで「フルコ・マーク」と言います。“フルコ”とはH.U.R.C(Hiroshima University Railfan Circle)のことです。最初に私が描いた時は女性ウケするようにもう少し可愛らしかったと記憶しているのですが、時間が経つうちに徐々に“退化”していったようです。また、「鉄研のうた」というページがありますが、この「鉄研のうた」、正式には「ローカル線の詩(唄にあらず)」と言いますが、作詞・作曲とも不肖・私、越智正昭です。
(鉄研のうた)
“詩”と書いて“うた”と読ませる‥‥、当時はこういうのが流行りました。私は、学生時代、作詞だけを含めると30曲くらい曲を書いたのですが、残っているのは僅か30分くらいの短い時間でササって感じで書いたこの『ローカル線の詩』だけですね。本当は3コーラス目まで詞を書きたかったのですが、2コーラス目で完結した感じになってしまいそれ以降が書けなかったので、私の中では未完のままの楽曲なんです。作曲及びギターの演奏はあまり得意ではなかったので、C、F、G、G7、D、D7‥‥といった初心者でも演奏できるような簡単なコードばかりの羅列です。「“とりあえず”こういう感じの曲を付けてみたんだけど、どう? できたら曲を作り直して欲しいんだけど」って相方のヤマダ君と長澤クンに試しに歌って聴かせたら、「このままでいいんじゃあないですか」ってことになって、この曲ができました。青春、やっていました ♪(´ε` )
その広島大学鉄道研究会の創設メンバーの中でも、私は2年後輩のヤマダ君と長澤クンとはフォークソングという鉄道以外の共通の趣味もあり、たいへんにウマが合い、よく行動を共にしていました。長澤クンは“軽便鉄道”マニアという鉄道趣味の中でも極めてマイナーでマニアックな趣味の持ち主で、創設メンバーの中でもひときわ異彩を放っていました。 影響力も抜群で、入学時にはSL(蒸気機関車)中心の撮り鉄だったヤマダ君は長澤クンと出逢ったことで軽便鉄道に目覚め、今も軽便鉄道の廃線跡を訪ねるのを趣味としています。基本“乗り鉄”のオールラウンダーだった私も、あと1年長く大学にいたら、長澤クンから洗脳されて間違いなく軽便鉄道マニアのダークサイドに堕ちていた(笑)と思っています。
ちなみに、軽便鉄道とは、建設費・維持費の抑制のため低規格で建設された鉄道のことです。日本における軽便鉄道は、法規的には「軽便鉄道法」に基づいて建設された鉄道のことを指し、軌間幅はJRなどで使用されている1,067mm(3フィート6インチ)未満(狭軌)に制限され、日本では軌間幅762mm(2フィート6インチ)である事例がほとんどです。軌間幅が狭いだけでなく、軽量なレールが使用され、地形的な制約を克服するために急曲線・急勾配の区間が多いという特徴を持ちます。このため運転速度が低く、輸送力も小さく、産業が未成熟で限定的な輸送力しか必要とされない地域(はっきり言うと“田舎”)に建設される事例がほとんどでした。
一般的な営業鉄道のほか、森林鉄道や殖民軌道、鉱山鉄道など、鉄道法規の規定によらない低規格の鉄道も含まれ、建設が容易であることから、軽便鉄道は1920年代には陸上交通機関として全国各地に爆発的に普及していきました。軽便鉄道は鉄道の長所である高速大量輸送能力に乏しく、路線バスの普及とモータリゼーションの進展によって、1970年代までにほぼ全ての路線が次々と廃止されていきました。現在、軽便鉄道は、営業鉄道としては、四日市あすなろう鉄道(元近畿日本鉄道)内部・八王子線、三岐鉄道北勢線、黒部峡谷鉄道の3路線が残るのみで、産業用としても国土交通省立山砂防工事専用軌道が工事用として、また、黒部峡谷鉄道の支線にあたる関西電力黒部専用鉄道がダムへの資材輸送用として、屋久島の安房森林軌道が森林鉄道として現存しているだけです。(ちなみに、「四日市あすなろう鉄道」の社名は、未来への希望と、内部・八王子線が軌間762mmという狭軌“ナローゲージ”であることから命名されたものだそうです。)
私の学生時代にもそれら今も現存する鉄道路線のほかに岡山県の下津井電鉄など幾つかの路線が営業路線として残っていただけで、軽便鉄道マニアとはほとんどが廃線跡マニアのような様相を呈していました。なので、鉄道マニアとしては、めちゃめちゃディープでマニアックなジャンルに属します(ちなみに、こうした背景から、長澤クンが中心となった広島大学鉄道研究会・軽便鉄道部会は自らを「The田んぼ」と称していました)。
大学に入学した18歳の当時からこんな鉄道マニアの中でもめちゃめちゃディープでマニアックなジャンルにドップリと嵌っていた長澤靖クンには、今考えても驚くしかありません。なんで少年期からこんな渋すぎる世界に嵌ってしまうことができたのか‥‥、感受性という点では、おそらく彼は通常の人の何倍も高いものを持っているのかもしれません。理系のわりには日本の歴史が大好きで、受験勉強で身につけた知識を遥かに超越するくらいにやたらと詳しかったですし、彼は同じものを見ても、見えている景色が私達常人とは根本的に異なるところがあるのではないか‥‥と思ったりしたことが何度もありました。
こういう長澤靖クンが作ったという“隠れ家”です。いったいどういう“隠れ家”なのか私の頭では想像もつかず、ただただ期待だけが膨らみます。
‥‥‥‥(その3)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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