2016/07/13

中山道六十九次・街道歩き【第2回: 板橋→蕨】(その5)

 新河岸川(隅田川)を志村橋で渡り、次に土手を階段で登って、荒川を戸田橋で渡ります。「荒れ河(暴れ川)」と言われた荒川の面影は今日は感じられません。水は静かでゆったりと流れています。戸田橋の側道を歩きます。橋の中間点が東京都板橋区と埼玉県戸田市の境界線となっています。橋を渡り切り戸田市に入ります。

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 右手に小高い土手を見て進むと「旧中山道」の標識が住宅の角に立っています。

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 その先を直進したところの左側には、船の守り神である「船玉大明神」と人々の水運と旅の安全を護ってきた小さな「水神宮」が祀ってある「戸田水神社」があります。見た感じ、今は地元に住む人達の氏神的存在になっているようです。

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 すぐ右手の側道脇の一段高いところに「中山道渡船場跡」の碑が立っています。「戸田の渡し」は渡船13隻(馬船3隻、平田船1隻、伝馬船1隻、小伝馬船8隻)を約220人で運行され、渡船場は明治8年(1875年)に長さ135mの木橋の初代戸田橋が架けられるまで運行が続けられました。

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 現在の戸田橋は1978年に完成した4代目で、初代の橋より約100m程上流に位置しています。その戸田橋の横をJR東北新幹線・上越新幹線、さらには私が毎日の通勤で使っているJA埼京線の線路が走っています。現在、当時の渡し船と同じ場所を行き来する舟はボートやカヌーで、それらのちょうどいい練習場になっているようです。

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 旧中山道をさらに北へ進みます。右側に戸田市内で最古と言われる木造建造物の地蔵堂があり、その斜向かいには新しく建てられた「中山道の案内板」が立っています。そこをさらに進むと菖蒲川で道はいったん途切れます。対岸以降の旧中山道は現在は消滅しているので、旧中山道に近い道を進みます。いったん右に迂回して川岸橋を渡ります。その後は住宅街の中の私道ではないかと思えるような細い生活道路を進みます。ここが旧中山道だったのだとすると、ビックリです。

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 国道17号線(現在の中山道)の川岸3丁目の信号手前の下町2丁目あたりでいったん右に入り、再度すぐに旧中山道に戻ります。そこにある「つつじ幼稚園」のあたりに一里塚があったと推定されています。

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 その「つつじ幼稚園」の前にある武内家です。武内家は代々このあたりの庄屋を務めていた家で、武内文書と呼ばれる中山道全盛期を偲ばせる古文書が数々残されている家だそうです。その武内家の前を過ぎてすぐの下町1丁目の信号の先の小さな公園に、中山道の案内板があります。旧中山道がこのあたりのどこを通っていたかが一目で判ります。

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 その案内板に従って、現在の中山道(国道17号線)から1本東側の細い道路を進みます。ここが旧中山道です。下の写真で宅配便のトラックが停まっている一方通行の細い道路が実は旧中山道です。この道路は本町信号の先で再び現在の中山道(国道17号線)に合流します。そこを右折して、さらに進みます。

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 錦町一丁目南信号交差点のところで戸田市から蕨市に入ります。その先の信号で、旧中山道は国道17号線と分かれ、ガソリンスタンドの右側の道に進み、いよいよ蕨宿に入ります。道の分岐するところに『中山道蕨宿碑』と書かれた立派な石碑が立っています。

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 蕨宿は江戸日本橋を出てから2番目の宿場町です。“蕨”という地名の由来は「藁火」説と「蕨」説の2つの説があります。「藁火」説では、源義経が藁を燃やして立ち昇る煙を見て「藁火村」と名付けたとか、在原業平が藁を焚いてもてなしを受けたことから「藁火」と命名したなどと言われています。いっぽう、「蕨」説には、近隣の戸田郷や川口郷にも見られる「青木」「笹目」「美女木」などといった植物に由来した地名と同様、蕨が多く自生する地であったことに基づく命名とするものや、僧・慈鎮が詠んだ歌「武蔵野の 草葉に勝る 早蕨を 実に紫の 塵かとぞ見る」をもって「蕨」としたとするものがあり、はっきりとはしていません。この蕨には戦国時代に渋川氏の居城「蕨城」があり、城下では市も開かれていたため、宿場として成立する基礎があったと言われています。

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 宿場通りの入口に『中山道・蕨宿』と書かれた木製のゲートが立ち、通りもそれらしく塗装されています。通りの両側の歩道上に、中山道全宿場の「中山道六十九次浮世タイル」なるものが敷かれています。その先右側郵便局前に、「蕨宿 史跡めぐり」案内版があります。

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 整然としてかつとても綺麗に整備されていて、地元の方々の中山道に対する力の入れようが伝わってきます。左側に歴史民俗資料館分館があります。この分館は明治時代に織物の買継商をしていた家を公開したもので、建物は木造平屋寄棟造り。中山道に面した店舗の部分は、明治20年(1887年)に建てられたものだそうです。庭園には、四季を通じて美しい花々が楽しめるようで、この日はリンゴの実も実っていました。珍しいロウバイ(蝋梅)の実も実っています。ロウバイの実って、初めて見ました。

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 信号のある交差点左角に、創業二百数十年の看板がかけられた「うなぎ今井」があります。入口に「蕨宿 今井の深き江戸の味、生を養い気をも養う」という木製の看板が立てかけてあります。この蕨から次の宿場町である浦和にかけてのあたりは、かつては荒川の氾濫がもたらした沼地が多い湿地帯で、鰻が大量に獲れたことから鰻が名物でした。魅力的で鰻を食したい気持ちは多々あるのですが、あくまでも団体行動なのでそこは諦めます(準備中の札がかかっていましたし…)。

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 その先の左側に、明治時代織物の買継商をしていた家をそのまま使用した脇本陣跡の岡田厚生堂薬局があり、隣接して「歴史民族資料館本館」があります。蕨市歴史民族資料館が設置されている場所には元々は岡田加兵衛本陣がありました。蕨宿には本陣が2つあり、岡田加兵衛本陣は問屋、名主を兼ね、「西の本陣」と呼ばれ、皇女和宮や明治天皇の休憩所ともなりました。道を挟んで向かい側には、「東の本陣」と呼ばれた塚越本陣がありました。この「歴史民族資料館本館」には実物大の旅籠屋や商家、本陣上段の間等が復元して残されているほか、1/200の縮尺の蕨宿の町並み模型が展示されています。その隣に岡田加平衛本陣跡の碑が建っていて、この辺りが蕨宿の中心地であったところと思われます。

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 市役所の脇を入ってゆくと「蕨城址」の碑があります。「蕨城」は長禄年間(1457年~1460年)に渋川義行により築城された城です。平地に作られた平城であり、軍事要衝というよりは在郷の行政府に近い位置付けの城でした。徳川家康の関東入封に伴って徳川将軍家の鷹狩りのための館として再造営され、蕨城跡に鷹場御殿が建設されました。現在は城址公園として整備されていますが、往時のものとしては、僅かに水堀が残るだけです。今は小さな公園となっていて、「成年式発祥の碑」、枝分けされた「ニュートンのリンゴの木」の碑、堀跡等が残っています。その隣には和楽備神社があります。

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 かつて、蕨宿の中心部は堀で囲まれていました。宿場の飯盛女・助郷、機織女工の夜逃げ、逃亡を防ぐためのもので、昼間ははね橋を仕掛け、夜間はその橋を上げ、堀を越えられないようにしたもので、蕨市指定文化財になっています。現在、残っているものは、当時のものを復元されたものです。

 この日はこの蕨城址公園がゴールでした。娘が蕨市にある高校に通っていたこともあり、我が家にとって蕨市は馴染みの深い町です。また、この日渡ってきた戸田橋の横を走るJA埼京線は、私がこの28年間、毎日の通勤で使っている路線です。このように板橋宿→蕨宿間は私にとってたいへん馴染みのあるところの筈だったのですが、今回ここを徒歩で歩いてみて、初めて知ったことがメチャメチャたくさんありました。次の第3回は蕨宿から浦和宿を通って大宮宿までの行程。ほとんど私が住んでいる埼玉県さいたま市の市内だけを通るコースです。ここでも初めて知ることにいっぱい触れることができるのではないか…と今から期待しています。次回の第3回も楽しみです。


――――――――〔完結〕――――――――