2016/07/19

男子は生涯一事をなせば足る

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 このハレックス社オフィシャルブログ『おちゃめ日記』のプロフィールにも書いておりますように、私は郷里愛媛県松山市の出身で明治時代の日露戦争において大活躍した大日本帝國陸軍大将・秋山好古を尊敬していて、秋山好古陸軍大将のおっしゃられた「男子は生涯一事をなせば足る」を座右の銘にしているほどです。

 秋山好古陸軍大将は司馬遼太郎先生がお書きになった小説『坂の上の雲』に、弟の秋山真之海軍中将、俳人の正岡子規とともに主人公の1人として描かれています。私は学生時代にこの『坂の上の雲』を読み、非常に感銘を受け、なかでも主人公の1人、秋山好古陸軍大将の人間性に惚れ込み、ずっと尊敬するとともに、その背中を追いかけてきたようなところがあります。

 なので、秋山好古陸軍大将に関しては、この『おちゃめ日記』の場でも、プロフィールだけでなく、何回か取り上げさせていただきました。是非そちらのほうも併せてお読みください。
『坂の上の雲』再び…
秋山好古陸軍大将名言集

 さらには、愛媛県で立ち上げた農業向けにもっと気象情報を活用するための仕組みを構築するプロジェクトを推進する組織に『坂の上のクラウドコンソーシアム』という名称を付けたのも、私の発案です。
「坂の上のクラウドコンソーシアム」に込めた思い

 この司馬遼太郎先生の小説『坂の上の雲』、そして私の敬愛する秋山好古陸軍大将に関しましてはNHKのスペシャル大河ドラマにも取り上げられたので、ご存知の方も多いかと思います。このNHKのスペシャル大河ドラマの中で、秋山好古陸軍大将の役は阿部寛さんが演じられました。秋山好古陸軍大将は長身で色白、大きな目といった日本人離れしたヨーロッパ人のような顔立ちの方だったので、阿部寛さんというキャスティングはピッタリだったように思います。

 でも、ご存知ではない方もいらっしゃるかと思い、『坂の上の雲』の簡単なあらすじをご紹介しようと思います。このあらすじに関しては、NHKのスペシャル大河ドラマの毎回の冒頭で、渡辺謙さんが語るナレーションほど端的で的確で素晴らしいものはありませんので、そちらをご紹介します。

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まことに小さな国が開化期を迎えようとしている。

「小さな」といえば明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年のあいだ読書階級であった旧士族しかなかった。明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものを持った。誰もが「国民」になった。不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。

この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。社会のどういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にも成り得た。この時代の明るさはこういう楽天主義から来ている。

今から思えば実に滑稽なことに、コメと絹の他に主要産業のない国家の連中は、ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。陸軍も同様である。財政の成り立つはずがない。が、ともかくも近代国家を作り上げようというのは元々維新成立の大目的であったし、維新後の新国民の少年のような希望であった。

この物語はその小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振舞ったかという物語である。主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかく我々は3人の人物の跡を追わねばならない。

四国は伊予松山に3人の男がいた。この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるにあたって勝利は不可能に近いと言われたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て、それを実施した。その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団を破るという奇跡を遂げた。もう一人は、俳句短歌といった日本の古い短詩形に新風を入れて、その中興の祖となった俳人・正岡子規である。

彼らは明治という時代人の体質で、前をのみを見つめながら歩く。上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。
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 このナレーションにもあるように、秋山好古陸軍大将は、日本の騎兵を育成し、日露戦争において史上最強の騎兵といわれたロシアのコサック騎兵師団を破るという奇跡をなし遂げた人物です。陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に、「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」とまで言わしめたという逸話も残っていて、「日本騎兵の父」と呼ばれています。

 明治37年(1904年)に勃発した日露戦争においては、秋山好古陸軍少将(当時)は騎兵第1旅団長として出征し、第2軍に属して、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などの戦闘で、騎兵戦術を駆使してロシア陸軍と戦いました。中でも秋山好古陸軍少将(当時)の名声を不動のものにした戦闘が黒溝台会戦です。

 黒溝台会戦とは、日露戦争中の1905年1月25日~29日にかけてロシア満州軍の大攻勢により起きた日本陸軍とロシア陸軍の戦闘のことです。黒溝台とは奉天(現在の瀋陽市)の南に位置する台地です。“203高地の戦い”で有名な旅順攻略でなんとかロシア軍を満州の地に押し戻した日本軍は、遼陽会戦、沙河会戦を経た後、奉天の南側の黒溝台において長くロシア軍と対峙する膠着状態が続きました。日露両軍ともに補給を待つためと、冬季に入り寒さと砲弾を避けるために、東西に塹壕を掘り上部に掩堆を施した土の中に潜ったような状態で向かい合うことになったわけです(沙河の対陣)。この時の日本陸軍は旅順攻略とそれに続く何度かの戦闘による砲弾の大量消耗により極端な砲弾不足に陥っており、このままではロシア陸軍に打撃を与えるどころか次の会戦も実行できなくなるような深刻な状態が続いていました。

 この時、日本軍は東西方向に大きく翼を広げたような格好で陣地を構築していましたが、場所によってはその防御の厚さに大きなムラがありました。日本軍は西側より順に秋山支隊、第2軍、第4軍、第1軍といった布陣で展開していました。このうち第2軍と第4軍は中央を担当している関係上、最も厚く布陣されており、それに次ぐのが東側の山岳地帯に布陣していた第1軍で、そこもある程度厚く布陣されていました。一方、秋山好古陸軍少将率いる秋山支隊は日本軍の最左翼(西側)を守備していましたが、この秋山支隊はこれらに比べ陣形が薄く、防御も極めて弱い状況でした。記録によると、秋山支隊は40km余りに及ぶ戦線に対して、わずか8,000人程度の人員しか配置されていなかったと言われています。ちなみに、“支隊” とは、軍隊において特別の作戦任務に基づいて、一時的に本来の指揮系統から独立して行動する部隊のことです。秋山支隊とは秋山好古陸軍少将率いる騎兵支隊のことで、秋山好古少将の発案により、直接指揮する騎兵第1旅団に加えて歩兵・騎兵・砲兵の3兵種を備えた複合型騎兵集団という、当時、世界で他に類を見ないような大きな特徴を持っていました。

 この日露両軍が塹壕を掘って睨み合う膠着状態を破ったのが、1月25日のロシア軍の奇襲攻撃でした。「この氷点下30℃にもなる厳しい冬季に、ロシア軍が大作戦を起こすはずがない」という先入観から不意を突かれた日本軍は浮足立ちます。この機を逃さず、ロシア軍は史上最強の騎兵といわれたコサック騎兵師団を投入し、日本軍陣地で最も陣形が薄く、防御も弱いと見做されていた秋山支隊が守備する最左翼(ロシア軍から見れば最右翼)に大攻勢をかけてきました。この最左翼をコサック騎兵師団に破られれば、その騎兵と言う機動力を駆って一気に日本軍主力の第2軍と第4軍はコサック騎兵師団に後方から攻められ、前後からの挟み撃ちによって壊滅することになります。

 ここでこのコサック騎兵師団に勇猛果敢にも立ちはだかったのが、秋山好古陸軍少将率いる秋山支隊でした。ほとんどの日本陸軍幹部が「この氷点下30℃にもなる厳しい冬季に、ロシア軍が大作戦を起こすはずがない」という先入観に囚われていた中にあって、秋山好古陸軍少将だけは、ナポレオンのロシア遠征時の事例から、ロシア軍では冬将軍を気候の利として利用し、寒気を利用できる時期に攻勢を行うことを基本戦術として用いることが多いという認識に立って、ロシア軍による大攻勢の予兆を察知していました。しかしながら、秋山支隊のような兵力で40kmという広範囲におよぶ陣地を守ることはとても不可能なことでした。このため秋山好古少将は、拠点防御方式という騎兵としては相容れようもない発想の戦術を採用しました。

 騎兵という兵種はその特徴である機動力で敵の弱点に対して打撃を与えるためのものです。一方、秋山好古少将の考え出した拠点防御方式は、拠点に塹壕を掘り、穴ぐらに馬ごと潜ってしまって、そこから機関銃などの銃火器で敵を攻撃するというものでした。この戦術は騎兵の機動力が生かされない一方、騎兵の弱点を徹底的に突くという戦法でした。いかにも騎兵を知り尽くした秋山好古少将らしい戦法と言えます。秋山好古は陸軍大学校で学生たちに騎兵の特徴(高い攻撃力と皆無に等しい防御力)を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕し、血まみれになった拳を見せて、「騎兵とはこれだっ!」と言って示したという逸話が残っています。まさにその皆無に等しい防御力を大量の機関銃を用いることによって突いたわけです。

 日本古来の一般的な武士道の考え方ならば、正々堂々と(ある面、破れかぶれで)騎兵同士で正面からぶつかり合う戦闘を選択しがちなのですが、敢えてそれを封印し、塹壕の中に隠れて待ち伏せして敵の弱点を徹底的に突くという戦法に出たわけです。目的を果たすためならば、過去の経験️や常識に縛られてた「思考停止」に陥ってはならず、状況に合わせて柔軟に物事を考えないといけないってことです。それも必死で…。これが本当の意味での“武士道”なのではないかと思います。ちなみに、当時、騎兵が機関銃を携行するということは世界中のどの陸軍でも採用していなかった画期的な戦法であり、騎兵の戦法を知り尽くした秋山好古が知恵を絞って考え出した独創的な戦法といえます。

 秋山支隊はこの戦法により、史上最強といわれたロシアのコサック騎兵師団が数倍の規模で襲ってくるという極めて不利な状況でありながらも防御体制を何とか構築することに成功し、日本軍の最左翼を死守して、黒溝台会戦の窮地を救うことになります。前述のように、もし、この戦闘においてコサック騎兵師団に最左翼を突破されたならば、間違いなく日本軍は背後から攻められて壊滅することになったと思われます。

 日本海軍が勝利は不可能に近いと言われたロシア海軍のバルチック艦隊をパーフェクトゲームに近い戦い方で滅ぼすことになった日本海海戦が行われたのは、この黒溝台会戦から4ヶ月後の1905年5月27日のことです。もし、この黒溝台会戦で日本陸軍の前線部隊が壊滅していたら、ロシア軍は一気に遼東半島の旅順港を奪い返していたでしょうから、日本海海戦での勝利もおぼつかなかったと容易に推測できます。その意味で、黒溝台の最左翼で秋山好古少将率いる秋山支隊がロシアのコサック騎兵師団の猛攻を防いだことが日露戦争での勝利に直結したということができます。もし、日露戦争で日本がロシアに敗れていたら、民主主義国家としての今の日本国の繁栄はなかったのではないか…とも思われることから、秋山好古陸軍大将は日本を救ったヒーローとも言える方なのです。ちなみに、日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立てたのは、聯合艦隊の参謀だった秋山好古少将の実弟、秋山真之海軍中佐(当時)でした。この四国松山出身の兄弟は凄すぎます!

 この黒溝台会戦だけではありません。黒溝台会戦終了後、秋山支隊から派遣された永沼秀文中佐率いる永沼挺進騎兵隊は、その騎兵ならではの機動力を十二分に駆使し、ロシア軍陣地の奥深くにまで侵入し、後方撹乱する任務を果たしました。永沼挺進騎兵隊がとった作戦は少人数の騎兵部隊による後方攪乱であったにもかかわらず、機動力を駆使した神出鬼没の攻撃を随所で繰り返したため、ロシア軍は大部隊が攻め込んできたと勘違いし、大いに混乱することになります。結果、黒溝台会戦に引き続いて行われた奉天会戦において、ロシア軍はミシチェンコ騎兵師団を含む約3万人の兵士を後方の警戒へ回さざるをえなくなり、奉天会戦への参加を阻むことに成功しました。この戦力分断に成功したことが、1905年3月1日から3月10日にかけて行われた日露戦争最後の会戦である奉天会戦での日本軍の勝利に直結します。

 ちなみに、秋山好古さんがお亡くなりになる直前に発した最期の言葉は「奉天へ!」だったと、司馬遼太郎先生の小説『坂の上の雲』に書かれていました。お亡くなりになる直前にこの厳しかった黒溝台会戦と奉天会戦のことを思い出しておられたのかもしれません。

 よく日本の武将で誰が一番強かったのかってことが話題にのぼったりしますが、私は迷うことなく秋山好古陸軍大将を推しますね。戦国武将は国内の内戦で武功を争っただけのこと。秋山好古陸軍少将(当時)はヨーロッパにおける最も古い大国の一つであるロシアの正規軍を相手に、その知略を尽くして正々堂々と戦い、勝利したわけですから。レベルの次元が違います。ボクシングに喩えるならば「世界ランカー」。それも、当時史上最強と言われたロシアのコサック騎兵師団を撃破したことで、かなりの上位にランキングされる騎兵のプロフェッショナルです。この時、秋山好古陸軍少将(当時)は46歳でした。

 この日露戦争での功績により、秋山好古少将は陸軍中将に昇進し、近衛師団長や朝鮮駐剳軍司令官を務め、大正5年(1916年)にはさらに陸軍大将に昇進し、教育総監となり、陸軍三長官の内の一人となります。そして、大正12年(1923年)、64歳の時に予備役に編入。軍人を退役されます(元帥位叙任の話もあったのですが、本人が硬く固辞したのだそうです)。

 ここからの秋山好古さんがさらに凄いのです。軍人を退役したその翌年に郷里の四国松山に帰り、私立北予中学校(現・愛媛県立松山北高校)の校長に就任。教育者として晩年を過ごすのですが、陸軍大将、それも陸軍三長官まで務めたような人物が田舎の中学校の校長になるというのは異例中の異例の格下人事で、世間は大騒ぎします。しかし、これは本人の強い希望だったと言われています。秋山好古さんという人は、私欲のまったくない人で、根っこは軍人ではなく教育者だったのかもしれません。

 先日、私が敬愛するその秋山好古陸軍大将の直系のお孫さん(長男の長男)である秋山哲兒さんとお会いする機会に恵まれました。私がこの『おちゃめ日記』の場だけでなく、いろいろなところで「私が尊敬している歴史上の人物は秋山好古陸軍大将だ!」ってことを書いたり、言ったりしているので、それを知ったある方からのご紹介でした。たまたまの偶然ですが、秋山哲兒さんはハレックス社のすぐ近くの東五反田のマンションにお住まいでした。不思議なご縁を感じてしまいました。

 それにしても、久々に身震いするほど緊張してしまいました。お孫さんだと分かっていてもこれだけガチガチに緊張しちゃったわけですから、秋山好古さんご本人を目の前にしたら、きっと私は直立不動だったのではないか…と思います。秋山好古さんはそれくらい私にとって強く尊敬する人ですから。

 今回は秋山哲兒さんのご自宅を訪問し、2時間ほど滞在して、いろいろとお話を聞かせていただいたのですが、気持ちが舞い上がってしまって、いったい何を話したのかすぐには思い出せないほどでした。秋山家に残る秋山好古陸軍大将に所縁の品々は、現在はほとんど全て愛媛県松山市にある『坂の上の雲ミュージアム』に貸し出しているのだそうで、現在秋山家に残っているのは「天地無私」と書かれた好古さん直筆の書だけなのだそうです。私欲がまったくなかった秋山好古さんらしい清々しい書です。それを間近で観させていただきました。感動しました。好古さんは書に長けており、退役後は揮毫を頼まれることが多かったそうです。
坂の上の雲ミュージアム公式HP

 秋山好古さんは、晩年、自らの功績を努めて隠していたそうで、北予中学校の校長時代に生徒や親から「日露戦争の時のことを話して欲しい」、「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」などと頼まれても全て断り、自分の武勲を自慢するようなことはいっさい無かったそうです。また、「学生は軍人ではない」として、学校での軍事教練の時間を極力減らし、その時間を一般教養の授業に充てたほか、生徒らの見聞を広めるために修学旅行先に当時日本の統治下にあった朝鮮を選んだのだそうです。

 また、秋山好古さんは福澤諭吉を尊敬しており、ご自身の子息のみならず親類の子もできるだけ慶應義塾で学ばせようとしたそうで、当然のこととして、お孫さんの秋山哲兒さんも慶應義塾大学のご出身です。

 今回の訪問では初対面ということもあって私もガチガチに緊張しまくっていたところもあり、十分に秋山好古陸軍大将のお話をお孫さんである秋山哲兒さんからお聞きすることができませんでした。特別に通していただいた秋山哲兒さんの書斎の本棚には秋山好古陸軍大将に関する様々な書物が並んでいたので、また再度ゆっくりとお邪魔して秋山好古陸軍大将に関するお話をお聞かせいただきたいとお願いして、この日はおいとまさせていただきました。再訪に関してはご快諾をいただいたので、再度の訪問が楽しみです。

 青山霊園にある秋山好古陸軍大将が眠っておられるお墓の場所も教えていただいたので、近いうちにお参りに行ってきたいと思っています。

 いやぁ〜、それにしても緊張しました(^_^;)


【追記】
 今年の春、私の甥っ子が愛媛県立松山北高校(前身は秋山好古陸軍大将が校長を務めた北予中学校)を卒業し、中学校の教師を目指して愛媛大学教育学部に進学しました。これは秋山好古陸軍大将を深く敬愛する伯父としては、メチャメチャ嬉しかったですね。

執筆者

株式会社ハレックス前代表取締役社長 越智正昭

株式会社ハレックス
前代表取締役社長

越智正昭

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