2017/01/25

中山道六十九次・街道歩き【第8回: 深谷→本庄】(その3)

「島護産蚕神社」という変わった名前を持つ神社です。“島護”というのはこのあたりにある南西島など島や瀬のつく地名の地域(四瀬八島というらしいです)が利根川の氾濫でたびたび大きな被害を受けたため、この神社を地域の守護神として信仰したためといわれています。また“産蚕”の名前は、かつてこのあたりが養蚕がたいへん盛んな地域だったことから付けられたとのことです。

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ここで、今回、ウォーキングリーダーさんから聞いた神社の鳥居に関する薀蓄を1つ。

神社等において神域と人間が住む俗界を区画するもの(結界)、すなわち神域への入口を示すものとして建てられているのが鳥居です。垂直に立てられた2本の柱の上に笠木(かさぎ)、その下に貫(ぬき)という2本の横木を入れてその2本の柱を固定しているのが一般的な鳥居の構造です。他に、貫と笠木の間に額束(がくづか)を入れて建てることがあります。鳥居の分類は大別すると、柱や笠木など主要部材に「照り」や「反り」(柱の円柱加工を含まない曲線を表す加工)があるかないかで分けられます。照りや反りが施された代表例としては『明神鳥居(みょうじんとりい)』があり、それらが施されない代表的な例としては『神明鳥居(しんめいとりい)』が挙げられます。

神明鳥居に代表される鳥居は、柱や笠木は丸材を用いることもありますが、全体的には直線の部材が多く用いられます。なので、神明鳥居は素朴な形式で、全体的に直線的な印象を持ちます。笠木には丸材、貫には板材が用いられることが多いのが特徴で、貫は2本の柱を貫通せず、柱は地面に対し垂直に立てられているのが一般的です。伊勢鳥居とも呼ばれるように、伊勢神宮の鳥居がこの形をしています。

この『明神鳥居』と『神明鳥居』の違いですが、どうも神社の祀られている神様の性別に関係しているのだそうです。すなわち、男の神様が祀られている神社の鳥居が『明神鳥居』、女の神様が祀られている神社の鳥居が『神明鳥居』なのだそうです。なので、祀られている神様の性別は、鳥居の構造を見ればすぐに分かるのだとか。それは貫が2本の柱を貫通しているのか、していないのか。この島護産蚕神社の鳥居は貫が柱を貫通していないので『神明鳥居』、すなわち島護産蚕神社に祀られている神様は女の神様ということになります。そう言えば、伊勢神宮に祀られているのは天照大神、女性の神様です。

島護産蚕神社の前を通り過ぎたところで、右折。旧中山道から離れちょっと寄り道です。向かった先は、この先300メートルほどのところにある『中宿(なかじゅく)古代倉庫群跡』です。

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この深谷市岡にある『中宿遺跡』は、7世紀後半~9世紀(奈良時代~平安時代)にかけて使われた大規模な倉庫群の跡です。ここは武蔵国二十一郡の1つ榛澤郡の郡衙(ぐんが:郡の役所)の正倉と推定されています。正倉とは、律令制の時代に、(税として徴収した)穀物や財物を保管するために、寺院や国衙(こくが:国の役所)に設置された倉庫のことです。1991年に行われた発掘調査では全部で16棟の建物跡が発見され、そのうち最も規模の大きい1号と2号の2棟の倉庫が復元されています。

側壁に用いられた木材が四角で交差する構造をした蔵を「校倉(あぜくら)」と呼んでおり、中宿遺跡のものは、奥の1号建物跡がこの校倉で復元されています(2号建物跡は板倉で復元)。この校倉の流れを汲んでいるのが、奈良の東大寺の正倉院の高床式倉庫です。高床式の倉庫は、元々は湿度の高い東南アジアで用いられてきました。湿気やネズミ対策のために床を高く上げて、風通しを良くして穀物等を保管しました。日本でも弥生時代頃から使用されてきたのですが、これを応用したものが、神社建築の神明造りです。この高床式の倉庫は、寺社や貴族の邸宅にも発展したと言われているほか、一説には、数寄屋造り、書院造り等の日本の伝統的な建築様式のルーツが、この高床式の倉庫に繋がるとされています。

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中山道が整備されたのは江戸時代に入ってからですが、それ以前、ここには『東山道』という当時の幹線道路が通っていて、奈良や京都といった畿内地方と関東地方を結んでいました。前述の熊谷直実や岡部六弥太(忠澄)が活躍したのが平安時代後期。彼等はこの東山道を通って、京都(平安京)に上っていたのでしょう。この『中宿遺跡』に遺された大規模な倉庫群は、7世紀後半~9世紀(奈良時代~平安時代)にかけての律令制の時代に使われていた郡衙の正倉と推定されるそうなので、この遺跡からはそういう時代から奈良や京都といった畿内地方と関東地方が東山道で結ばれていて、人やモノの行き来がなされていたと推定されます。凄いことですね。

現在、その遺跡の周辺は「中宿歴史公園」として整備されています。

ここで、深谷市の観光ボランティアガイドさんの説明をお聴きしました。

この中宿古代倉庫群跡があるところの地名は深谷市岡。まさに岡の上にあるところという意味のところで、櫛引台地の上の標高が周囲より少し高いところにあります。中宿古代倉庫群跡から東側は一段下がった低地になっていて、それが遥か先まで広がっています。そこを利根川が流れています。なるほど、ここに倉庫群が置かれていた理由がよぉ~く分かります。

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中宿歴史公園には「原始蓮」の池があります。「原始蓮」とは1,400年から3,000年くらい前にあった蓮(はす)のことです。埼玉県で蓮と言えば、行田の「古代蓮」があまりにも有名ですが、ここ深谷市にも「原始蓮」の咲く池があったのですね。ただ、この深谷市の「原始蓮」は元々この地に自生していた蓮ではなく、大阪府下で自生していた古代の蓮の種を有名な植物学者の故・大賀一郎博士が見つけ、「原始蓮」と名付けたものです。

日本の文献に初めて蓮のことが書かれたのは西暦712年に編纂された『古事記』。この『古事記』に書かれた蓮と思われる蓮が、この「原始蓮」です。中宿歴史公園の大規模な倉庫群は、その『古事記』が編纂された7世紀後半~9世紀にかけての律令制の時代の郡衙の正倉跡と推定されるされることから、中宿歴史公園に、この貴重な「原始蓮」の種を植栽されることになったということが案内板には書かれています。

今は冬なので枯れていますが、夏はさぞや見事に蓮の花が咲き誇るのでしょうね。蓮の花が咲き誇る時期に、是非訪れてみたいものです。

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中宿歴史公園の横には「道の駅おかべ」があり、週末は大勢のお客さんで賑わいます。実は、旧中山道から外れて中宿歴史公園に立ち寄ったのは、その「道の駅おかべ」に行くためでもあるのです。「道の駅おかべ」の駐車場に、私達を運んできた大型観光バスが先回りして着いていて、そこで昼食のお弁当を食べるためです。

「道の駅おかべ」の駐車場に鉄道の小型除雪車を載せたトレーラーが駐車していました。もうそろそろこれが大活躍する季節ですね。どこへ運んでいるところなのでしょうね。

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この日は気温が低めで、見上げると雲が厚くかかってきたので、昼食のお弁当は観光バスの車内でいただくことにしました。

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「道の駅おかべ」は国道17号深谷バイパス沿いに平成9年5月にオープンした「道の駅」です。埼玉県北部に位置する日本有数の野菜産地である深谷市は、肥沃な農地から生まれる新鮮な野菜の出荷とユリ・チューリップを代表とする花卉栽培が盛んです。それだけに、この「道の駅おかべ」の農産物直売所で販売されている野菜や切り花等の品揃えはまさに圧巻!の一言です。わざわざこの「道の駅おかべ」に野菜を購入するためにクルマでやって来るお客さんも多いのだとか。分かる気がします。物産センターでも地元の野菜を使用した漬物やジェラートなどが販売されています。お弁当を食べた後、私も「道の駅おかべ」を覗き、お土産に深谷ネギを購入しました。購入したお土産は観光バスの車内に積んでおけばいいので、バス利用は助かります。


……(その4)に続きます。