2017/01/27
中山道六十九次・街道歩き【第8回: 深谷→本庄】(その4)
昼食と休憩を終えて、再び中山道街道歩きに戻ります。
こうした火の見櫓(やぐら)がところどころに残っています。高い櫓の上に半鐘は取り付けられていませんが、今も防災無線の発信塔として現役で使われているようです。なかなか風情があっていいですね。
「福岡藩黒田家岡村陣屋跡碑」です。有名な戦国武将・黒田官兵衛(孝高)の嫡男、黒田長政は九州平定、文禄・慶長の役で活躍。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となりました。その福岡藩黒田家の飛び地の領地が、ここ深谷の岡村にありました。その陣屋跡を示す石碑です。福岡藩黒田家の領地ではあったのですが、どうも黒田家の当主(福岡藩主)がこの飛び地の領地である岡村を訪れたことはなかったようです。
ここで旧中山道は右に折れ、北に進路を変え、豊見坂と呼ばれる約1町(100メートルちょっと)続く急な下り坂になります。
山の中を行く道のようですが、これが豊見坂、すなわち旧中山道です。ここは山の中の切り通しのようなところを通っていて、道幅を拡幅しようがないところなので、おそらく中山道全盛期、いや、さらに遡って東山道が京都と関東地方を結ぶほとんど唯一の道路だった時代においても、ほぼ同じくらいの道幅の道路だったのではないかと思われます。まさに昔のまんまの中山道と言えます。ちょっと感動!!
豊見坂の途中にある百庚申です。このたくさんの庚申塔は万延元年(1860年)、岡の13人の有志により建立されました。この年は黒船の渡来や桜田門外の変といった世情不安の年で、神仏にすがる思いと、万延元年と庚申の年とが重なっていたことから建立されたものと考えられています。庚申塔もこれだけ数多く並ぶと、場所が山の切り通しのような豊見坂の途中だけに、ちょっくら不気味ではあります。
豊見坂もそうだったのですが、ここから本庄宿までの間には、本当にここが昔、五街道の一つ、中山道だった道なの?…と思えるほどの幾分ワイルドなところを歩いていきます。いちおうところどころに簡単な標識は立っていますが、この区間は道案内をしていただけるガイドさんがいないと絶対に通れないようなところです。
豊見坂を下り終えてから滝岡橋までのしばらくは、京都に向かう旅人にとって唯一進行方向左側に赤城山が見える「左赤城」と呼ばれる区間になります。この「左赤城」、滝岡橋のたもとでこの後説明してくれた地元の観光ボランティアガイドさんの話によると、昔はそういう風には呼ばれていなかったようで、街道歩きがブームになったごく最近になって、そう呼ばれるようになったのだそうです。なぁ〜んだ(笑)
滝岡橋を渡ります。この滝岡橋の橋の名前は本庄市滝瀬の“滝”と、岡部町の“岡”の一字を取って付けられました。すなわち、この橋を渡った少し先は本庄市です。下を流れる川は利根川水系の小山川(こやまがわ)です。この橋は昭和3年(1928年)に作られたもので、江戸時代には現在の橋から約200m上流のところを渡し船で渡っていました。なので、ここは渡船場でした。明治34年(1901年)に最初の木橋ができました。最初の橋の橋長は82 mで幅員は7.3 m。その後、前述のように昭和3年(1928年)に現在の滝岡橋が開通しました。鋼製の8連桁で、橋の延長は146.7 m、幅員は6.3 mです。完成から80年経った平成20年(2008年)、国の登録有形文化財に登録され、また日本の近代土木遺産の一つに指定されています。
滝岡橋の橋脚の部分には深谷の特産品である煉瓦(レンガ)が積み上げられています。橋の両側4カ所には照明塔らしきものが立っています。電気の照明とも思えないので、ガス灯だったのかもしれません。昔はこれで橋の在りかが遠くからでも分かるように教えていたのかもしれません。
この橋の北東に、幕末から大正初期にかけての実業家で、第一国立銀行や東京証券取引所といった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれた渋沢栄一の生家があります。
ここでこの日2度目の地元の観光ボランティアガイドさんの説明を受けました。この観光ボランティアガイドさん、【第7回】の深谷宿でも深谷の土壌について説明してくれたガイドさんです。この日は主に本庄宿の説明をしていただきました。深谷の土に思い入れが強いのか、途中から土の話になってしまいましたが、この小山川の流域は粘性が高い粘土質の土壌が広がっている地域で、実際の土を見ながらの説明だったので、前回以上に説得力があります。なるほどぉ〜。
この日の熊谷市を中心とした埼玉県北部の天気予報は午前中曇りで、午後は3時頃から小雨。午前中は青空が顔を覗かせるほどで、気温もこの時期にしてはちょっと低め、街道歩きをするのには快適な気象環境だったのですが、「道の駅おかべ」で昼食をいただいているあたりから、秩父連山のほうにちょっと黒目の気になる雲がかかってきました。弊社のHalexDream!にアクセスして雨雲の今後の動きを確認すると、どうも本庄市付近は午後2時過ぎから雨が降り出すようです。ポツポツと雨粒が当たりはじめました。この先しばらく降水強度は0.5mm/時とそれほど強い雨脚にはならないようですが、それでもこれから夕方までその降水強度でずっと降り続ける見通しなので、リュックに入れて持参した雨具(雨合羽)を羽織ることにしました(夕方以降、本格的な雨に変わる見通しです)。他の皆さんも一斉に雨合羽を羽織りました。
……(その5)に続きます。
こうした火の見櫓(やぐら)がところどころに残っています。高い櫓の上に半鐘は取り付けられていませんが、今も防災無線の発信塔として現役で使われているようです。なかなか風情があっていいですね。
「福岡藩黒田家岡村陣屋跡碑」です。有名な戦国武将・黒田官兵衛(孝高)の嫡男、黒田長政は九州平定、文禄・慶長の役で活躍。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となりました。その福岡藩黒田家の飛び地の領地が、ここ深谷の岡村にありました。その陣屋跡を示す石碑です。福岡藩黒田家の領地ではあったのですが、どうも黒田家の当主(福岡藩主)がこの飛び地の領地である岡村を訪れたことはなかったようです。
ここで旧中山道は右に折れ、北に進路を変え、豊見坂と呼ばれる約1町(100メートルちょっと)続く急な下り坂になります。
山の中を行く道のようですが、これが豊見坂、すなわち旧中山道です。ここは山の中の切り通しのようなところを通っていて、道幅を拡幅しようがないところなので、おそらく中山道全盛期、いや、さらに遡って東山道が京都と関東地方を結ぶほとんど唯一の道路だった時代においても、ほぼ同じくらいの道幅の道路だったのではないかと思われます。まさに昔のまんまの中山道と言えます。ちょっと感動!!
豊見坂の途中にある百庚申です。このたくさんの庚申塔は万延元年(1860年)、岡の13人の有志により建立されました。この年は黒船の渡来や桜田門外の変といった世情不安の年で、神仏にすがる思いと、万延元年と庚申の年とが重なっていたことから建立されたものと考えられています。庚申塔もこれだけ数多く並ぶと、場所が山の切り通しのような豊見坂の途中だけに、ちょっくら不気味ではあります。
豊見坂もそうだったのですが、ここから本庄宿までの間には、本当にここが昔、五街道の一つ、中山道だった道なの?…と思えるほどの幾分ワイルドなところを歩いていきます。いちおうところどころに簡単な標識は立っていますが、この区間は道案内をしていただけるガイドさんがいないと絶対に通れないようなところです。
豊見坂を下り終えてから滝岡橋までのしばらくは、京都に向かう旅人にとって唯一進行方向左側に赤城山が見える「左赤城」と呼ばれる区間になります。この「左赤城」、滝岡橋のたもとでこの後説明してくれた地元の観光ボランティアガイドさんの話によると、昔はそういう風には呼ばれていなかったようで、街道歩きがブームになったごく最近になって、そう呼ばれるようになったのだそうです。なぁ〜んだ(笑)
滝岡橋を渡ります。この滝岡橋の橋の名前は本庄市滝瀬の“滝”と、岡部町の“岡”の一字を取って付けられました。すなわち、この橋を渡った少し先は本庄市です。下を流れる川は利根川水系の小山川(こやまがわ)です。この橋は昭和3年(1928年)に作られたもので、江戸時代には現在の橋から約200m上流のところを渡し船で渡っていました。なので、ここは渡船場でした。明治34年(1901年)に最初の木橋ができました。最初の橋の橋長は82 mで幅員は7.3 m。その後、前述のように昭和3年(1928年)に現在の滝岡橋が開通しました。鋼製の8連桁で、橋の延長は146.7 m、幅員は6.3 mです。完成から80年経った平成20年(2008年)、国の登録有形文化財に登録され、また日本の近代土木遺産の一つに指定されています。
滝岡橋の橋脚の部分には深谷の特産品である煉瓦(レンガ)が積み上げられています。橋の両側4カ所には照明塔らしきものが立っています。電気の照明とも思えないので、ガス灯だったのかもしれません。昔はこれで橋の在りかが遠くからでも分かるように教えていたのかもしれません。
この橋の北東に、幕末から大正初期にかけての実業家で、第一国立銀行や東京証券取引所といった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれた渋沢栄一の生家があります。
ここでこの日2度目の地元の観光ボランティアガイドさんの説明を受けました。この観光ボランティアガイドさん、【第7回】の深谷宿でも深谷の土壌について説明してくれたガイドさんです。この日は主に本庄宿の説明をしていただきました。深谷の土に思い入れが強いのか、途中から土の話になってしまいましたが、この小山川の流域は粘性が高い粘土質の土壌が広がっている地域で、実際の土を見ながらの説明だったので、前回以上に説得力があります。なるほどぉ〜。
この日の熊谷市を中心とした埼玉県北部の天気予報は午前中曇りで、午後は3時頃から小雨。午前中は青空が顔を覗かせるほどで、気温もこの時期にしてはちょっと低め、街道歩きをするのには快適な気象環境だったのですが、「道の駅おかべ」で昼食をいただいているあたりから、秩父連山のほうにちょっと黒目の気になる雲がかかってきました。弊社のHalexDream!にアクセスして雨雲の今後の動きを確認すると、どうも本庄市付近は午後2時過ぎから雨が降り出すようです。ポツポツと雨粒が当たりはじめました。この先しばらく降水強度は0.5mm/時とそれほど強い雨脚にはならないようですが、それでもこれから夕方までその降水強度でずっと降り続ける見通しなので、リュックに入れて持参した雨具(雨合羽)を羽織ることにしました(夕方以降、本格的な雨に変わる見通しです)。他の皆さんも一斉に雨合羽を羽織りました。
……(その5)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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