2018/03/16

邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その16)

国道438号線を北上して貞光まで戻り右折、そこで国道192号線を吉野川に沿って徳島市の方向へ。横をJR徳島線の線路が並走しています。穴吹町穴吹で再び右折。今度は国道192号線に入り、穴吹川に沿って上流のほうに南下。再び剣山に向かって山を分け入っていきます。この国道492号線もとても国道とは思えないくらいの細い道路で、突然対向車がやって来ないか前方が常に気になります。穴吹で国道492号線に入ってから約40分。目的地の三木家住宅へ向かう道路との分岐点に到着しました。「国指定重要文化財 三木家」という案内表示が出ています。三木家住宅はここからこの「三ツ木農免農道」を登って行った先にあります。

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その国道492号線との分岐点に立っている説明看板には「南北朝時代の三木家の館」と題した説明が書かれています。それによると、 阿波忌部の三木家は南北朝時代は山岳武士の大将として活躍し、数々の手柄を立てて南朝に忠節を尽くしたのだそうです。また鎌倉時代には御殿人(みあらかんど)として宮中に奉仕する家柄であったのですが、南北朝戦乱の頃から永らく麁服(あらたえ)の貢献が中断されていたのですが、大正天皇の即位式に当主三木宗治郎が麁服織進(そふくしきしん)を宮内庁に運動して許可されて以来、大正・昭和・平成の各天皇の即位の礼に三木家を中心に村をあげて麻を育て、糸に紡いで麁服を貢献してきたのだそうです。

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説明看板には三木家住宅までの道順が描かれた略図が示されています。ここから先、何度もペアピンカーブの坂道が続き、上まで登り切った先が三木家住宅のようです。その途中には善福寺という寺院と、駒止桜という桜の木があるようです。善福寺は阿波忌部氏三木家の菩提寺でしょうか。なお、この略図には「三木家住宅」ではなく「忌部屋敷」という表現で示されています。

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平成3年3月に建てられた「三ツ木農免農道 開通の碑」があります。それによると……前方に東宮山を仰ぎ、南西に剣山を望み、四方が開けた景勝の地であり、千年の昔より忌部一族の由緒ある郷であるこの地を貢、三ツ木と称する。急峻な地であり、人肩による農民の営みは想像以上のものであった。この地域の活性化を図るため、地元の熱意と協力、関係各位の努力により昭和55年から農免道路整備事業三ツ木地区として農林水産省の補助のもと11年の歳月を経て農道は開通した。(以下略)……と刻まれています。なるほど、このあたりは三ツ木という地名なのですね。三ツ木の忌部氏ということで、現在は三木姓を名乗られているのでしょう(氏族名は忌部)。ちなみに、三木という苗字の由来をネットで調べてみると、……「三木(みき)」姓は「御木」に由来し、「御城」「美貴」「美木」「光木」などがある。神が降臨する神木を意味する……と出てきます。忌部氏がそうですが、いかにも祭詞を司っていた一族らしい苗字です。

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ここからは、穴吹方向からやって来ると一度切り返しをしないといけないくらいの極めて急なヘアピンカーブを右へ曲がり、「三ッ木農免農道」と表示の出ている急勾配の坂道を登っていきます。ここから三木家住宅まではおよそ3.5km。一度切り返しをしないと曲がれないくらいの極めて急なヘアピンカーブが何度も続き、アクセルをベタ踏みしないと登れないくらいの急坂が続く一本道をクルマは登っていきます。

三木家住宅のあるこのあたりの地名は徳島県美馬市木屋平(こやだいら)。平成の大合併の前までは美馬郡木屋平村でした(2005年、同じ美馬郡の美馬町、穴吹町、脇町と合併)。1973年、所属する郡が美馬郡へ移行するまでは麻植郡木屋平村でした。その木屋平の中心地はここからさらに国道492号線を剣山の方向(南)にクルマで15分ほど山を分け入って進んで行った先にあります。国道492号線はそこで国道438号線(国道439号線と重複)と合流し、西に進みます(すなわち、そこから剣山7合目の見ノ越までは3つの国道の重複区間になり、国道を示す青いオニギリマークが団子のように3つ付きます)。その国道438号線を徳島市方向(東)に鮎喰川沿いに進むと名西郡神山町と隣接しています。私が注目している神山町です。

また、この美馬(みま)市、美馬郡という地名、これもメチャメチャ気になるところです。魏志倭人伝には卑弥呼を支える邪馬台国の有力な官(役人)の名前も書かれていて、それが伊支馬(イキマ)、彌馬升(ミマショウ)、彌馬獲支(ミマワキ)、奴佳鞮(ナカテイ)の4人。特に気になるのが彌馬升(ミマショウ)と彌馬獲支(ミマワキ)の2人。彌馬(ミマ)と美馬(みま)、関係があるのでしょうか。さらにその美馬市の南に隣接する自治体が那賀(なか)郡那賀町。卑弥呼を支える邪馬台国の有力な官(役人)の名前の中に奴佳鞮(ナカテイ)がありますが、奴佳(ナカ)と那珂(なか)、これも大いに気になるところです。これらの地名は卑弥呼を支える邪馬台国の有力な官(役人)の人達にちなむ地名ということなのでしょうか…。さらに、那賀郡那賀町と東祖谷山村の南には高知県との県境があり、隣接している自治体の名称は高知県香美郡物部村(ものべそん)と言います。この物部村は剣山の南麓にあたり、調べてみると、陰陽道や古神道の一つといわれる「いざなぎ流」が伝わる地域としても有名なほか、平家の落人伝説も多く残っているところのようです。この「物部」という地名も大いに気になります。『古事記』や『日本書紀』に登場する饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖先とすると伝わっている有名な古代氏族「物部氏」と何らかの関係があるのでしょうか?

エッ!邪馬台国は四国にあった?(その2)

エッ!邪馬台国は四国にあった?(その4)

余談になりますが、初日にお会いした高越山の行者である宮本さんのお話によると、国道438号線はこの木屋平から剣山方向(西)の区間は11月下旬のこの時期でも雪が積もり、クルマの走行が危険とのことで、特に「コリトリ」から先、見ノ越までの区間は冬期は通行止めになるということでした。1週間前にも用事でその付近に行ってきたそうで、慣れない人はあそこはこの時期通らないほうがいいともおっしゃっていました。

この「コリトリ」という地名が気になったので調べてみました。「コリトリ」を漢字で書くと「垢離取り」と書くのだそうです。垢離(こり)とは、神仏に祈願する時に冷水を浴びる行為のことで、水垢離(みずごり)、水行(すいぎょう)とも言います。「垢離」は神や仏に祈願したり神社仏閣に参詣する際に、冷水を被り、自身が犯した大小さまざまな罪や穢れを洗い落とし、心身を清浄にすることです。神道でいう禊(みそぎ)と同じですが、仏教では主に修験道を中心に、禊ではなく水垢離などと呼ばれ行われています。特に修験道は、神仏習合の山岳信仰による影響から、この水垢離をよく行います。これらの垢離の行を「垢離を取る」、「垢離を掻く」などと言います。従って、「コリトリ(垢離取り)」とは修験道の行者が霊山剣山に入る前に水垢離の行を行うところという意味の地名と思われます。私はそのコリトリに行ってはおりませんが、地図で確認すると確かに霊山剣山の6合目付近にあたり、ここから国道438号線は見ノ越への急坂をヘアピンカーブを繰り返しながら登っていきます。修験道の行者が歩く行者道(登山道)もそのあたりから伸びているのではないかと思われます。それと水垢離の行を行うための滝も…(このあたりは山肌から滝がいっぱい流れ落ちていますから、滝は間違いなくあるでしょう)。

ちなみに、垢離は漢語には見当たらず、中国から伝来した文化ではなく、純粋な日本の文化と考えられます。ただ、古代ユダヤ教には同様のしきたりがあるのだそうです。それだけでも、なにやら徳島に隠された謎の核心に徐々に迫っていっているような気になってきます。ちょっと怖い感じです。

国道492号線から細いジグザグの坂道をクルマで登ること約10分、ホントこの先に三木信夫さんのお宅はあるの?…と思い始めた頃、山頂の平らになったところに出て、そこに三木家住宅はありました。立派なお宅です。「三ツ木農免道路 開通の碑」には「前方に東宮山を仰ぎ、南西に剣山を望み、四方が開けた景勝の地であり、千年の昔より忌部一族の由緒ある郷であるこの地を貢、三ツ木と称する」という文字が刻まれていましたが、ここはまさにその通りのところです。このあたりが貢(みつぎ)、三ツ木(みつぎ)なのですね。自然から阿波忌部氏与えられた貢物とでも言いたくなるような素晴らしい景観のところです。ちょっと雲がかかっていましたが、ここからだと剣山は望めます。

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三木家は阿波忌部氏の直系にあたり、代々朝廷の神事に関わってきた家系です。前述のように、三木家のある場所は、以前は麻植郡に位置し、朝廷の神事で使われる麻を栽培していました。この麻が大変に上質で、天皇が即位後初めて行う践祚大嘗祭(せんそだいしょうさい)の折に、もっとも重要となる麁服(あらたえ)という麻織物を献上していました。麁服は、天皇が即位する時に神事で着る麻の服のように思われがちですが、実際は巻物のように長い一枚の麻の織物です。大嘗祭では天皇陛下は麁服を身につけるのではなく、麁服に息を吹きかける儀式をなさるとのことです。すなわち、麁服は天皇陛下が神衣(かむそ)として祀られるもので、神道と密接に関わっている天皇になるための、そして天皇であるための必須アイテムとも言えるものなのだそうです。

また、どこの地方の誰が作った大麻の麁服でも良いというわけでなく、朝廷が指定するのは、必ず徳島の三木家が作った麻の麁服である必要があります。正式には阿波忌部氏の作った麁服でなければなりません。何度も書いてきましたが、阿波忌部氏とは、大和朝廷建国にも関わった古い氏族であり、農業を中心とした産業技術を持った職人を引き連れた集団で、日本全国に散って大麻を普及させたことでも知られています。また、大化の改新まで大和朝廷の宮中祭祀を司った一族でもあり、その中で天皇家に古くから伝わる大嘗祭の麁服もすべて阿波忌部氏が担当してきました。

その阿波忌部氏の直系であるのがこの三木家であり、明治維新後も天皇が即位する度に皇室へ大嘗祭の麁服を調製し・ 調進(供納)しています。天皇が崩御され、あるいは退位され、次期天皇が決まって年号が変わり、それから三木家では大麻の種まき、収穫を行なって、全て手作業で麁服を作り上げて皇居まで届けます。畑作り、種まきから織るまでの一連の作業すべてを三木家が司り、その1つ1つが神事のように祈りの中で丁寧に行われます。

三木家には、この様子を伝える鎌倉時代から南北朝時代に至る古文書が残されています。麁服の献上は、南北朝動乱以降は中断していましたが、後に復活して大正・昭和、そして平成の大嘗祭においては、木屋平をはじめ近隣の集落全部をあげての協力で、立派な麁服を献上しています。

三木氏は、鎌倉時代から戦国時代末期までは山岳武士団の頭領として活躍し、特に南北朝時代には大きな勢力を持っていました。現存する三木家住宅は、江戸時代初期に建てられた徳島県最古の民家で、中世山岳武士の武家屋敷の面影を残す物とされ、国の重要文化財に指定されています。この屋敷の傍らには、麁服を織るための道具や貴重な古文書などが展示された三木家資料館もあります。

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三木家の前に阿波神山で採れたという「さざれ石」が置かれています。日本国の国歌『君が代』に詠われたあの「さざれ石」です。その石には天皇家及び皇室を表す紋章である『十六八重表菊』の入った説明書きが埋め込まれています。

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その説明書きによると……、

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「さざれ石」は、「子持ち石」とも呼ばれ、小石が長い歳月のうちに凝結して岩石となったものです。延喜5年(905年)、勅撰の古今和歌集にも天皇の御治世の長久繁栄を寿ぐ賀歌として詠まれています。
  「わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
徳島県神山町及び佐那河内村(鮎喰川及び園瀬川の上流の谷川)から産出される「さざれ石」は、他から産出する石灰質のものとは異なり、太古海底に噴出した高温の溶岩が海水と接触して破砕され、これが堆積固結して生じた海底火山角礫岩で、長い年月にわたって地熱と巨大な圧力で変成作用を受けた美しい緑色の子持ち岩です。地元では「神凝り石」とも呼ばれ、自性身(神)の霊波に愉伽する稀少な天然石で、阿波では太古から鏡・剣などとともに神霊をよりつかせる依代として神事に用いられてきました。
古代倭国である阿波においては、皇祖皇宗の神々は陵墓として祀られ、その神霊は魂ふりによって陵墓に鎮められていますが、この神まつりが我が国神社の始まりとなっています。倭国(阿波)の発展に伴って元つ国阿波から他国への進出が始まり、新しい国土に住みつくようになりますが、各々の部族は、新しい開拓地に皇祖をはじめ元祖神を分祀する必要が生じ、その依代として「さざれ石(神凝り石)」に神霊を入魂し、これを分霊として開拓地に祀ったことが考えられます。
これが神庫、祠の由来となっています。
  (中略)
皇祖の根どころたる神山町で産み出される「さざれ石」こそ、天皇の御治世が千代に八千代に栄えることを祝詞にふさわしい石と言えるでしょう。
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もうこれを読むと、まったく疑いようがなくなってしまいますね。古代倭国は阿波、すなわち今の徳島県。そして、今上天皇陛下に繋がる大和朝廷はこの徳島県から興ったわけです。天皇家及び皇室を表す紋章である『十六八重表菊』の入ったこの説明書きがすべてを物語っているように思います。そこでも神山町という地名が出てきます。神山町には絶対に行かないといけないな…と改めて思ってしまいました。

ちなみに、美しい緑色をした「さざれ石」が採れると言われる徳島県神山町及び佐那河内村(鮎喰川及び園瀬川の上流の谷川)一帯は九州から関東へ、西南日本を縦断する形で1,000km以上に渡って延びる日本最大級の断層系である「中央構造線」のすぐ南側にあたり、「三波川変成帯」と呼ばれる広域変成岩帯の中にあり、低温高圧型の変成岩が分布するところです。神山町及び佐那河内村一帯では、その変成岩のうち、緑色片岩が広く分布しているということのようです。ここでも中央構造線が大きな意味を持ってきました。

この「さざれ石」の説明や(その5)で書いた徳島と古代ユダヤとの繋がりなどを総合して私なりの解釈で読み解いてみると、日本の国歌「君が代」に込められた本当の意味は、

「多民族が集まってできた(はじめは小さかった)我が国が、徐々に島々を統一して巌と呼べるほどの国となり、苔に覆われて粒々の石の違い、すなわち民族・氏族の違いが見えなくなってひとつの巨大な緑の岩のようになるまで、天皇を中心としたこの国の時代が未来永劫続きますように」

ということになるのではないか…と思います。余計な部分がいっさいなく、日本という国の形を簡潔に表した素晴らしい国歌だと私は思いますね。



……(その17)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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