2014/12/08

天気図がマル秘扱いとなった日

1941年12月8日と言えば、真珠湾攻撃と米英に対し宣戦布告し、第2次世界大戦に突入した日である。このことの詳細をここで述べるつもりはない。
実は、この開戦によって、天気図が極秘扱いとなり新聞掲載や公衆掲示が禁止された。合わせて、天気予報などの気象情報の一般への発表が突然無くなったのである。当時の天気予報がどれだけ国民の信頼を得ていたかは定かではないが、気象情報が無くなったことの影響は大きかったと思う。ここに1941 年(昭和16年)12月8日の天気図と、前日の天気図を並べて示す。

天気図がマル秘扱いとなった日


前日12月7日の天気図には無い「極秘」の丸印が天気図の左上隅に押されている。この天気図から部外発表はなくなり、軍など一部関係者にしか提供されなくなったのである。

天気図がマル秘扱いとなった日_2
予報業務に関わってきたものにとって、自らが作成した天気図が一般に提供できなくなり、これを基に作成した天気予報も提供できないことの辛さは想像しがたい。しかし、この日から天気図の作成や天気予報の作成を止めた訳ではない。この天気図の左下部分には東京地方天気予報として今晩、明日、明晩、明後日の天気予報が示されている。現在の天気予報と同じく、明日朝の最低気温の予報も示されている。天気図の左下部分の青枠の部分を拡大すると、「今晩 風弱く晴。明日朝の最低気温2℃」と冷え込みの厳しい朝を予想していたことが読み取れる。前日7日の予報では「明日朝の最低気温5℃」としていることから、当日の予報担当者は、北海道北西海上に解析された発達中の低気圧が北東に進み、そのあと冬型の気圧配置となり寒気が南下するとした予報を組み立てたのであろう。こんな生活情報すら知ることができなくなった悲しい出来事として、ここにとり上げたのである。

この日、天気図が「極秘扱い」となって、天気予報がラジオ放送や新聞紙面から消えた。気象情報が、軍の作戦に重要な役割をしていたためで、気象庁の先輩の多くが軍の気象予測に関わったことを聞いたことがある。全国各地からの報告される気象電文は全て暗号化され、厳しく管理されていた時代である。天気図には朝鮮半島、台湾の他、満州(中国東北区)の観測資料が入っているが、その他中国大陸の大部分は観測資料が入っていない。大戦中の天気図を見ると、日本の支配地域が変化していく様子も垣間見ることができる。

気象情報が再び、国民に提供されるようになったのは、この大戦が終わって1週間後の1945年(昭和20年)8月22日で、ラジオ放送に天気予報が復活した。3年8か月の気象情報が空白となった時期が終わったのである。ただし、これは東京地方だけで、他の地方はもう少し後になった。ラジオ放送に次いで翌朝には新聞にも天気予報が掲載された。

ラジオ放送で天気予報が再開されたが、この最初の天気予報は思わぬ結果が待っていた。最初の東京地方の明日の天気予報は「天気は曇りがち」であった。しかし、この夜、銚子付近に小さな台風が上陸し西進したため、この日22日夜~23日には80mmを超える雨が降り、天気予報は黒星スタートとなったのである。天気図上には関東南東海上を北西に進む台風が解析されていたが、その後、北に進むとして上陸までは予想しておらず、結果として不意打ちであった。この台風は勢力としては弱かったので、上陸後は急速に衰えていた。こんな語り草が残された最初の天気予報が一般へ提供が再開された日の天気図を示す。

この天気図の右上隅にはまだ「軍資秘」が印刷されており、提供を優先したことの表れである。この「軍資秘」の印が消えたのは1週間後の8月28日18時の天気図からであった。

天気図がマル秘扱いとなった日_3


現在は、世界各国の気象観測資料が入手できる平和な時代となり、空白域の無い天気図が解析でき、地球全体を取り巻く大気の流れを数値予報モデルで細かく予報できるようになっている。当時に比べれば飛躍的な精度の高い予報が出せるようになり、テレビ・ラジオで放送される天気予報だけでなく、さまざまな方法で気象情報を手に入れることができるようになり、幸せな時代である。
もし、こうした情報が入手できなくなった場合はどんなに不自由な思いをするだろうか。今の幸せな状況が崩れないで欲しいものである。

執筆者

気象庁OB 市澤成介

気象庁OB
市澤成介

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