2018/03/06

邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その13)

しかしながら、四国の古代の歴史が意図的に完全に隠蔽されたことに関しては、私は否定しません。むしろ、その通りではないか…と思っています。あまりに綺麗に消し去られているように思いますから。不自然に綺麗すぎると言うべきか…。日本最古の歴史書である『古事記』の中には「国産み」と言って、イザナミとイザナギが日本の島を次々と産んでいく話があり、最初に産んだのが淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)といって淡路島、そして次に産んだのが伊予之二名島(いよのふたなのしま)といって四国と書かれているのですが、それ以降、古事記や日本書紀においてその淡路島や四国に関する記述はほとんど出てきません。これはあまりに不自然なことです。

また、徳島県鳴門市にある「鳴門・板野古墳群」には「大代古墳(おおしろこふん)」と呼ばれる4世紀後半に作られた全長約54メートルの前方後円墳があったり(全国的にはほとんど知られていませんが、4世紀後半ということは、日本最古の前方後円墳と言われています)、そのほかにも四国の各地から多くの遺跡や古墳が出土している中で、これまで四国がほとんど注目を集まることはありませんでした。さすがにここまで注目されないと、なんらかの意図が働いて隠された…としないと、うまく説明がつきません。また、極端な言い方をすると、まるで四国の古代史に触れること自体が、歴史学者の先生方の間ではこれまでタブー視されてきたようにさえも感じられることがあり、四国に所縁のある一般人としては、正直ちょっと異様な感じもしています。

徳島に残る伝承によると、この四国の謎の隠蔽は俄かには信じがたいほど大掛かりなもので、その中には全国各地の地名の改称も含まれていたのだそうです。例えば標高3,776メートル、静岡県と、山梨県に跨る活火山である日本最高峰のご存知「富士山」。平成25年(2013年)には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名でユネスコの世界文化遺産に登録されたほどの山ですが、この山は古来より霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視されていました。噴火を沈静化するため大和朝廷により浅間神社(せんげんじんじゃ)が祭祀され、浅間信仰が確立された山でした。なので、この山は古代は「浅間山(あさまやま)」と呼ばれていました。(富士山本宮浅間神社の創建は、社伝によると第11代の垂仁天皇3年とされています。なので、その時代においては、現在の富士山は浅間山と呼ばれていたようです。)

いっぽうで、初日に行者の宮本さんとの話の中で出てきた徳島の阿波富士と呼ばれる「高越山(こうつさん)」。この高越山がもともと古代には「富士山」と呼ばれていました。で、四国の謎を隠すために、徳島の富士山と非常に形の似ていた浅間山を富士山と改名し、徳島の富士山を高越山と改名したという伝承も徳島県には残されています。このように、四国の謎を隠すためには、非常に大掛かりなことが行われたということのようです。

余談ですが、「浅間(あさま)」の語源については諸説あるのですが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされています。「あさま」は古称で、もう1つの称である「せんげん」は中世以降から用いられたとされています。浅間神社の主祭神として祀られているのは古事記や日本書紀に書かれた神話に登場する木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)。越智氏族の守護神であり、愛媛県の大三島にある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に祀られている大山祇神(おおやまつみ)の娘神です。

全国の越智さん大集合!(その7)     ……(その7)から(その10)まで、大山祇神と大山祇神社のことについて書いています。

全国規模の大規模な地名の変更ということで言うと、(その4)でご紹介した『好字二字令』が頭に浮かびます。奈良時代の初めの和銅6年(713年)にその『好字二字令』を発した時の天皇が元明天皇。第43代天皇で女帝です。第38代の天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ:遠智娘の妹)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたります。大友皇子(第39代・弘文天皇)は異母兄にあたります。そして、第40代の天武天皇と第41代の持統天皇の間の御子である草壁皇子の正妃であり、第42代の文武天皇と第44代の元正天皇(女帝)の母です。このあたり、メチャクチャ複雑です。そして和銅3年(710年)、平城京遷都の詔を発したのも元明天皇です。

元明天皇が第38代の天智天皇の皇女で、第40代の天武天皇と第41代の持統天皇の間の御子である草壁皇子の正妃…というのが大いに気になるところで、もしかすると、『好字二字令』とは、天武天皇と持統天皇の時代に企図された四国の歴史を隠蔽するために全国規模で仕掛けられた非常に大掛かりで巧妙な施策の一つだったのかもしれません。発したのが (天武天皇と持統天皇から見ると嫁にあたる) 元明天皇。これにより各地の地名が一種のガラガラポンにより歴史的な連続性を失い、非常に分かりにくくなりましたから。特に漢字表記では。もし仮に唐を欺くためにしたことだとすると、これほど有効な手はありませんからね。もし疑われたとしても、「尊敬する貴国(唐)を見習ってこういう地名なんですよ」…って笑って釈明すればいいだけのことですから。

……と解釈すると、歴史上唐突に発せられた感じさえ受ける『好字二字令』の意味も、なんとなく理解できそうな感じがしてきませんか?

で、富士山から高越山への改名、浅間山から富士山への改名も、もしかすると『好字二字令』施行のゴタゴタの混乱の中で行われたことなのかもしれません。その目的は契約の聖櫃(アーク)を隠したとされる剣山山中の鍾乳洞の場所を特定するうえで、当時、富士山(その後の高越山)が重要な目印、もしくはキーワードになっていたからではないでしょうか。だから、富士山をどこかとんでもない別の場所に移す必要があったわけです。「契約の聖櫃(アーク)を隠した場所を探しているのだけど、富士山という山が重要なキーワードになっている。その富士山という山はいったいどこにあるのか?」…と訊かれた際、「富士山というとても綺麗な形をした山は(現在の)静岡県と山梨県の間にある。四国の徳島にも同じような形をした山はあるにはあるけど、それは高越山という名前の山であって富士山ではない」…って答えればいいわけですから。

その真偽は分かりませんが、少なくとも、時間軸的にはピッタリ合います。現存する我が国最古の正史『日本書紀』の編纂が完了したのが第44代の元正天皇の時代の養老4年(西暦720年)のことですから、それともほぼ一致しますし。この現存する我が国最古の正史『日本書紀』の編纂も第40代の天武天皇と第41代の持統天皇が推し進めたものなので、これも四国の古代の歴史を意図的に隠蔽するために行われた施策の一つだったのではないか…といううがった見方も出てきます。「現存する我が国最古の正史」というのがミソで、おそらくそれ以前に編纂されてそれまで存在していたであろう正史は全て消し去られた(焼却された)ってことなのかもしれません。これにより、四国の古代の歴史が完全に隠蔽されたのかもしれません。

『日本書紀』に施された意図的な隠蔽ということに関しては、「エッ!邪馬台国は四国にあった?(その5)」の中で、私は次のようなことを書きました。

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白鳳大地震に関しては、日本書紀では「現在の高知県の一部が地盤沈下で海に沈んだ」とか、「伊予の道後温泉の湯も湧出が止まった」とか現在の愛媛県や高知県の被害の状況に関しては書き残されているのですが、何故か阿波の国(現在の徳島県)の被害に関する記述は残されておりません。中央構造線は吉野川沿いを東西に走っているわけで、中央構造線が動いたとするならば、徳島県一帯が無事だったことは到底考えられません。甚大な被害を遥かに通り越して、ほぼ壊滅に近い状態だったのではないでしょうか。阿波の国(現在の徳島県)の被害に関する記述がいっさい残されていない点が、かえって何かが意図的に隠されている感じさえしてきます。
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エッ!邪馬台国は四国にあった?(その5)

その一番最後に、図らずも「何かが意図的に隠されている感じがする」ということも書きましたが、これとも一致します。

もしその通りだとすると、日本の古代史の謎は、前述のように第40代の天武天皇と第41代の持統天皇が大きな鍵を握っていると思われます。特に謎が多いのが第41代の持統天皇です。“統(す)”めるを“持”つ、あるいは正“統”性を保“持”するというお名前からして、なにかを意味しているように思えます。ちなみにこの持統天皇、諱(いみな)は鸕野讚良(うののさらら)。死後に奉られた諡(おくりな)は2つあり、『続日本紀』に記述された大宝3年(703年)の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)」と、養老4年(720年)に完成した『日本書紀』において代々の天皇とともに記された「高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)」。『古事記』において、その冒頭に「天地(あめつち)のはじめ」に神々の生まれ出る場所としてその名が登場する高天原(たかまがはら、たかまのはら)ですが、『日本書紀』においてこの「高天原」という記述が出てくるのは、冒頭の神代紀第一段の第四の一とこの持統天皇の諡の2箇所のみです。前述のように、持統天皇は日本書紀の編纂に大いに関係のあった天皇。日本書紀は全30巻。神代から持統天皇の時代のことまでが記述されています。なので、「高天原」という記述は冒頭と巻末に出てくるだけです。これもまたいったい何を意味しているのでしょうね。

いずれにしても、第37代の斉明天皇が白村江の戦いに派兵した7世紀後半の西暦663年から、第43代の元明天皇により『好字二字令』が施行された8世紀初頭の西暦713年までの50年間。この僅か50年の間に一体この国で何が起こったのか…が分かれば、日本の古代史の大きな謎は一気に解明できるような気がします。日本中を揺るがすようなとてつもなく大きな出来事が起きたと思われます。で、その50年間のちょうど真ん中あたりの西暦684年には、南海トラフが動いたことに起因する超巨大地震『白鳳大地震』が発生し、西日本各地は極めて甚大な被害を受けています。この疑いようのない事実(真実)をどう捉えるか…です。

それにしても、この西暦663年から西暦713年までの50年間にいろいろなことが起き過ぎているような感じがしませんか? それも藤原京遷都や平城京遷都、全国規模の地名の変更、現存する我が国最古の正史の編纂など、今の時代にも影響が色濃く残るような大掛かりなことばかりが…。

特に『好字二字令』。私は地域防災を考えるにあたって地名に刻まれたその土地その土地の災害リスクを調べようとして、この『好字二字令』の存在を知りましたが、現代の多くの日本人はこの存在を知りません。もちろん学校の歴史の授業では触れられることはほとんどありません。歴史学者の先生方の中でもこの存在を忘れて日本の古代史を論じられているような方も中にはいらっしゃって、そういう方は大変に申し訳ありませんが、はなっから論外です。この『好字二字令』が四国の古代の歴史を隠蔽するために行われたという仮説が正しいとするならば、施行から1300年という長い時間が経ったにもかかわらず、その呪縛は今も残っているというわけで、その効果は絶大だったということになります。

『日本書紀』もおそらくはそれ以前に編纂されてそれまで存在していたであろう正史を参考にして書かれているでしょうから、その基本的な内容に関しては私はなんら疑問を差し挟むつもりはないのですが、唯一疑問を呈するとすれば、それは「場所の比定」。『好字二字令』が発せられたのが和銅6年(713年)のことで、『日本書紀』の編纂が完了したのが養老4年(西暦720年)。なので、この2つは一連のセットのようなものとして捉える必要があるのではないか…という推論も成り立つように私は思います。まぁ〜、日本書紀が編纂された8世紀のことならともかく、神話の世界で描かれている日本の神代(かみよ)の時代における人々の行動範囲って、極々狭い範囲に限られるでしょうから、神話の壮大なロマンももっと現実感を持って捉える必要はありますからね。くわえて、数学者で日本史学者の沢田吾一氏が1927年に刊行された「奈良朝時代民政経済の数的研究」に書かれた記述によると、奈良時代における日本列島の総人口はおおよそ560万人くらいだとされています。それからすると、それ以前の神代の時代の日本列島の総人口はせいぜい数十万人〜100万人と推定されますから。その神話に壮大な舞台の広がりとロマンを与えたのが古事記と日本書紀。そのための道具が『好字二字令』。そして1300年という長い時間を経ても、その呪縛は巧妙に残っていて、だから謎があまりに多い……、このように捉えてもいいかと私は思います。

加えて書くと、『日本書紀』によると、現在、出雲大社の名称で知られる島根県の杵築大社の修造を命じたのは斉明天皇で、斉明5年(659年)のこと。有名な伊勢神宮の式年遷宮も、天武天皇が定め、第1回が行われたのは持統天皇の時代の持統4年(690年)のこと。長野県の諏訪大社も持統5年(691年)に「信濃須波」の神を祀る…という表現で現存する文献上初登場してきます。16年をかけて造営した愛媛県の大三島にある大山祇神社が完成したのが元正天皇の時代の霊亀2年(西暦716年)のこと。

全国の越智さん大集合!(追記編)

さらに、全国的にはほとんど知られていませんが、四国の愛媛県松山市東部の東温市との境に位置する松山市来住(きし)町から南久米町にかけての来住台地には「久米官衙遺跡群(くめかんがいせきぐん)」と呼ばれる古代の官衙(かんが)関連遺跡と古代寺院跡があります(私の実家のすぐ近くです)。“官衙”とは古代の役所のことです。

「久米官衙遺跡群」とよばれるこの場所は、「来住廃寺跡」や古代の官衙やその関連遺構である「久米官衙遺跡」で構成されていて、東西約500メートル、南北約400メートルに渡って広がる広大な敷地を有しています。7世紀前半(西暦600年代前半)に遺跡群の北部に官衙(役所)が建設されたと推定されています。これは現在わかっている中では、平城京や藤原京よりも古い“日本最古”の本格的な役所の跡なのだそうです。7世紀(西暦600年代)中頃までに古代の官庁街として整えられていったようで、碁盤の目状に土地を区画して、道路も整備され、様々な役所の建物がどうもこの地割とよばれる土地の区画に従って整然と配置されていたのだそうです。

その中の一つが「回廊状遺構」と呼ばれる大規模な施設の遺構です。これは南側に八脚門をもち、内部の建物を2重の柱列によって取り囲んだ1辺が100メートルを超える四方形をした極めて大規模な施設だったと推定されています。またここには、当時の税である米を蓄えるためのものだったのではないかと推定される倉庫群が並んだ「正倉院」 が造られていたようです。 なぜ四国の愛媛県松山市に“日本最古”の本格的な役所の跡が遺されているのか?…、そこにはきっと明確な意味が隠されていると思われます。

エッ!邪馬台国は四国にあった?(その5)

まったくの余談ですが、「久米官衙遺跡」の「久米(くめ)」という地名もなかなか興味深いものがあります。久米氏という古代氏族がいるのですが、この久米氏は古事記や日本書紀において天孫降臨の場面に登場する天久米命(あまつくめのみこと)を祖神とする一族です。神武天皇の東征においても天久米命の子孫の久米部が武装して従軍したと記されています。

この久米部ですが、「クメール人」のことを指しているという説もあるのだそうです。クメール人は、現在もカンボジアを中心とするメコン川の中流域の山岳部で生活している農耕民族のことです。クメール人は武力に優れ、同時に優れた稲作技術を持った先進民族で、6世紀に真臘(チャンラ:後のクメール朝、アンコール朝)を建国し、アンコール・ワットに象徴される壮大なカンボジア文化を築き、12世紀には全盛期を迎えました。(その5)で世界最古の都市文明、メソポタミア文明を築いたシュメール人について書きましたが、そのシュメール人のうちカンボジアやベトナムといったインドシナ半島に進出した人達がクメール人ではないか…と言われています。

で、驚くことに、久米官衙遺跡群から出土した考古資料は幾つか松山市考古館に展示されているのですが、その中の1つ、久米官衙遺跡群から出土した瓦にはハス(蓮)の花の紋様が刻まれているのです。蓮の花と言えば、カンボジア人が昔から仏様への献花をはじめ重要なことに使っている花で、ベトナム社会主義共和国では国花とされています。まさにクメール人を象徴するような花。これはいったい何を意味しているのでしょうね。

松山市HP

久米官衙遺跡群パンフレット(PDF)

また、米(コメ)の語源は「クメール」だとも言われています。水田を用いた稲作技術は、もしかしたらクメール人が日本列島に持ち込んだものなのかもしれません。で、山の割合が8割を超える四国ですが、久米官衙遺跡のある松山市の周辺は比較的まとまった面積の平野が広がっていて、稲作には適したところですから、渡来してきたクメール人がこの地に住みついて本拠にしたのだとしてもおかしくはありません。また碁盤の目状に土地を区割りする都市開発や、1辺が100メートルを超える四方形をした「回廊状遺構」と呼ばれる極めて大規模な建物の建設も、当時としてはかなり高度な技術を持っていたとされるシュメール人(クメール人)がやって来たのだ…と仮定するならば、納得できる部分もあります。

いずれにせよ、このあたりはすべて7世紀の後半から8世紀の初頭、もう少し明確に言うと、西暦663年に第37代の斉明天皇が派兵を決めた「白村江の戦い」から、第43代の元明天皇の時代に『好字二字令』を施行した西暦713年までの間の約50年間の出来事のようです。この約50年間が日本の古代史における極めて大きなターニングポイントとなったようです。とにかく、これほどまでに大きな変化が凝縮された50年間は日本の歴史上、その前にも後にもないように、私は思います。そして、なぁ〜んか微妙な不自然さすら感じてしまいます。

で、第37代の斉明天皇といえば、「全国の越智さん大集合!(その5)」にも書きましたように、古代越智氏族、すなわち私の遠い祖先にも浅からぬご縁があったような方ですし、第41代の持統天皇の母親(天智天皇の妃)は蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ:越智娘と書かれることもあります)。どうも古代越智氏族とも関係が深そうです。こりゃあ私としては興味を持たざるを得ません。いずれにせよ今から1,300年以上も前の話です。何が真実なのかは誰にも分かりません。

全国の越智さん大集合!(その5)

それにしても、邪馬台国(和国)の人達が徳島県から集団で移住した先が奈良県というのも意味深いものを感じます。(その1)で書きましたように、関西地方から西で最も平均標高が高い府県は奈良県。第2位が徳島県ですから。山の民である山人(やまと)はどうも標高の高いところを選んで住まわれるようです。で、新しく山の民が住むようになった「山人(やまと)の国」に付けた国名が、「和国」が新しくなった&大きくなったという意味も込めて「大和国」。それで「大和」と書いて「やまと」と読ませるようになったとも考えられます。でないと、音読みでも訓読みでも「大和」は「やまと」とは読めません。加えて書くと、四国に残された「和(わ)国」は「あ・わ」と呼ばれるようになり、『好字二字令』によって「阿波」という漢字が当てられることになったのではないか…とも推察されます。“わ”に“和”ではなく“波”という漢字が当てられたのは、もしかすると何かを隠すためだったのかもしれません。これはあくまでも私の勝手な推察です。

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この日の夕食には近くで獲れた天然物のアマゴ(徳島ではアメゴと呼ぶ)の塩焼きも出て大満足! あまりアルコールに強くはない私もビールと焼酎のお湯割りが進みました。

それにしても、今回参加の皆さんは博識揃いで、話が弾みます。大塚さんは超音波と高電位を活用した画期的な冷却技術を活用した日本の「美味しい!」を届ける仕組み作りを提唱している会社を経営なさっていて、村上さんは料理人。当然のこととしてお二人とも食に関する知識が豊富。いろいろと勉強させていただきました。

酔いを覚ますために外に出てみたのですが、見上げると、まさに満天の星空でした。周囲にまったく余計な灯りがないのと、雲もなく空気が澄みきっているので、空一面に星が見えます。夜空を横切る雲状の光の帯「天の川」がシッカリ分かります。星座の名前が分かると楽しいのでしょうが、あいにく私は天文の知識が薄いので、北斗七星やオリオン座、スバル座、白鳥座といった極々有名な星座くらいしか分かりません。それでも北極星を探してみようと北の方向の空を見上げました。

「W」の形をしたカシオペア座がすぐに見つかりました。この時期は北斗七星が北の空に見えないので、子供の頃に習ったカシオペア座を使った方法で探してみると、北極星(pole star)をすぐに見つけることができました。北極星は2等星の恒星ですが、ホント久し振りに見たように思います。街の灯りで2等星であっても見えにくくなったってこともありますが、大人になってから意識して北極星を探してみることがなかったからですね。でも、この満天の星空を見ると、探してみたくなります。昔の人達はこのような、いや、おそらくこれ以上の満天の星空を眺めて暮らしていたのでしょうね。

キンキンに冷えたという表現がピッタリの冬の季節の山の中の冷気が、一気に酔いを覚ましてくれました。



……(その14)に続きます。